もう9時か、
2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50 [PR]無料のブラウザで出来るゲーム集[PR]  

【Literary】文学理論・文学批評V【Theory】

1 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 00:20:29
文学における批評や理論について意見や情報を交換するスレッド。

記号学、テクスト論、ナラトロジー、精神分析批評、マルクス主義批評
ニュー・クリティシズム、ヌーヴェル・クリティック、テマティック批評
などなど。

2 :前スレ:2007/09/07(金) 00:25:25
前スレッド
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1111258919/

前々スレッド
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1034435329/l50

cf)【もしかして】テクスト論再考【もう終わった?】
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1110168820/

3 :入門書とか:2007/09/07(金) 00:26:24
※入門書
『文学とは何か―現代批評理論への招待』 テリー・イーグルトン
『文芸批評を学ぶ人のために』 田辺保〔ほか〕編
『文学理論』 ジョナサン・カラー
ラマーン・セルデン『ガイドブック現代文学理論』

現代批評理論―22の基本概念
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582733913/

続:現代批評理論―+6の基本概念
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582733948/

ニュー・クリティシズム以後の批評理論 ポイエーシス叢書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4624932161/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/462493217X/

4 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 00:32:57
>>2

cf)【もしかして】テクスト論再考【もう終わった?】
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1110168820/

5 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 18:56:46
期待あげ

6 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 20:51:17
amazonでマリー=ロール・ライアンの『可能世界・人工知能・物語理論』を注文した。
このスレは認知物語論に興味ある人いるのかな?
前スレで『解釈の射程』読んでる人はいたみたいだけど。

7 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 21:02:26
西田谷洋『認知物語論とは何か?』には失望したっけ。

http://www.kokugo.aichi-edu.ac.jp/nishitaya/studypro/studypro3d.htm

8 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 21:25:10
『認知物語論とは何か?』は「いろんな理論の継ぎ接ぎでコラージュを
創りました」という域を出てない論考だと思ったなぁ…

9 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 21:31:10
わざわざ難解で馴染みのない認知言語学を持ち出す必要性が感じられず、
構造主義と言語行為論で解ける問題ではないかと思ったっけ。

10 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 21:58:20
>>9
中村三春の『フィクションの機構』はどう思った?
この人、国文畑の中ではよく勉強してるとは思うんだけど、
どうもジュネットの理解が浅いんじゃないかと思うのよね。

11 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 22:35:39
ジュネットって、『フィクションとディクション』かい。それともナラトロジー?
中村三春の文藝学路線にはどうも食指が動かない。
『「赤」の誘惑 フィクション論序説』(2007.3)なら読んでもいいな。
蓮實重彦には達者な藝があって、とにかく笑かしてくれるもんね。

12 :吾輩は名無しである:2007/09/07(金) 23:19:19
蓮實のその本は尻すぼみもいいところ
批評あるいは仮死の祭典と同じだった


13 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 02:23:53
『批評あるいは仮死の祭典』って、尻すぼみだったっけかあ?
だいたい、連載した長篇論考と寄せ集めた論文集とでは構成上同列に評せないよ。

14 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 02:27:46
書き方に失敗
30年前の本と言ってることが悪い意味で同じだった


15 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 02:33:55
『批評or仮死の祭典』はなかなかすごい本だよ。
あの当時の日本文化の文脈において読んでみると。

16 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 02:40:20
でも、他の虚構論を批判するときは蓮實はやはり冴えてない?
諸論に次々「赤」を見出だしてくる放恣にテマティックな手つきも、
吹き出したくなるほど堂に入った巧さ。それが愉しめれば、読む価値はある。

17 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 02:43:18
蓮実重彦の文体
 http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1050422679/l50
蓮實重彦2
 http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1155313983/l50

18 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 02:44:16
蓮實って昔からそういう人じゃん
でもオチは「抽象は駄目だ、生々しい具体物との遭遇がないと」ってトーン。
半ば理論嫌いの読者が溜飲を下げるために使いやすいって感じで、
文学理論に実際に貢献しているのは、
リシャール関連の仕事に限られるように思う。

19 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 02:47:13
リシャール論なんかより『物語批判序説』だよ、理論的にも。

20 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 02:58:42
蓮實の理論装置は意外と単純だと思うよ。
この人は理論の人ではない。

21 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 03:01:53
フローベール論でしょうに。

22 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 03:03:14
理論の人ってどんなんや。柄谷行人みたいなんか?

23 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 03:54:36
蓮實は「理論」という言葉が嫌いで「批評」をマジックワードにしている

24 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 14:22:35
嫌いなんじゃなくて、文学理論でやっていることが理論ではない、という認識でしょう。

理系の発想だけどね。

25 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 14:45:18
いや、文学理論の理論ってのは、
科学というよりは哲学の形而上学に近い
蓮實は哲学も好きじゃないよ

26 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 15:57:02
東大で表象を言い出したのは蓮實?

27 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 16:16:08
蓮實重彦・渡辺守章・阿部良雄・小林康夫・松浦寿輝・高橋康也・高辻知義


28 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 16:18:10
ほかにもいるかも

29 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 17:15:26
ルプレザンタシオンという雑誌が筑摩から出てた

30 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 18:34:50
蓮實と渡辺が編集委員となってルプレザンタシオンを出した
蓮實の意志を継いで小林・松浦が中心となった

31 :吾輩は名無しである:2007/09/08(土) 18:40:53
文学理論は、批評より詩学(ポエチック)に移るわけでしょ。
ジェラール・ジュネット「ポエティックの過去と現在」(『フィギュールIII』所収)参照。

「ですから、要約すれば、第一にテーマ批評、第二に構造主義批評、そして第三段階が
ポエティック、つまり文学のより一般理論的な研究、となるわけです。この一般理論的
傾向は、細かく言えば、実は「構造主義と文学批評」において既に始まるので、確か
『フィギュールI』の最後に収められているヴァレリーに関するエッセーにもそれは
見られる筈です。このエッセーにおいて私は、ヴァレリーを構造主義批評及び〔二字傍点〕
ポエティックのいわば先駆者として扱ったのですが、それは別に大発見でも何でもないのであって、
ポエティックとは、周知のように、コレージュ・ド・フランスにおける彼の講義題目
に他ならなかったのです。
 このようにして構造主義批評から文学理論――と言うより将来文学理論となるべきものの
最初の認識――への移行が進められるわけです。」……

32 :吾輩は名無しである:2007/09/09(日) 00:07:59
ジュネットとヴァレリーの関係ふたたび

33 :吾輩は名無しである:2007/09/09(日) 11:58:54
これを読むとジュネットにとってヴァレリーは偉大な先駆者だったんやね

34 :吾輩は名無しである:2007/09/09(日) 21:31:52
引用箇所を読むと
ジュネットはまずバシュラールの影響で批評をやり
次いでバルトに感化されて構造主義批評に移行、
そしてヴァレリーの影響下にポエティックに向かった、
という感じかな。

35 :吾輩は名無しである:2007/09/09(日) 23:57:06
前スレでジュネットの「アルシテクスト序説」を挙げてた人が
ジュネットの詩学はアリストテレスだって主張してたけど
それに関する具体的な引用なりがまだだね。

36 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 00:51:42
ジュネットvsヴァレリー話はそろそろ堂々巡りで飽きた


37 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 03:38:56
>ジュネットの詩学はアリストテレスだって
それは引用するまでもなく『アルシテクスト序説』全般で参照してるけど?
要は、ヴァレリー式の詩学(ポエティック=文学理論)を契機として
古典であるアリストテレスの『詩学』をも読み直すに至ったわけ。

>ジュネットvsヴァレリー
別に対立してないだろ。アリストテレスとヴァレリーもな。

38 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 04:23:57
いや、その話題蒸し返しすぎ
フィギュールのレジュメ聞いてどうするよ

39 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 04:33:38
どうせならジュネット近年の作品論とか論じろよ

40 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 05:34:19
作品論はクリティック。でも興味あるのは一般理論であるポエティックの方だな。

41 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 12:07:23
ジュネットだけ語ってると、
仏文プロパーに閉じていくんじゃなかろうか
書き込み人が仏文の人だからかもしれないけど


42 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 12:27:21
蓮實重彦は『「赤」の誘惑』とかで、英米系の分析哲学のフィクション論を撫で切りにしつつ
ジュネットもちょっと批判してなかったっけ?

43 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 13:03:56
ジュネット自身が分析哲学を援用しているからね


44 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 13:26:28
>>41
ジュネットはフランスの文学研究者にしては手広いから
ジュネットの研究者は、仏文プロパーには意外と少ないよ。
仏文に閉じたヴァレリー研究者は腐るほどいるが。

45 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 13:58:56
>>44
ジュネット本人が幅広いのは周知だろう
このスレで書き込んでる人の閉じた雰囲気がなんだかなあと思ったのですよ
引用とレジュメだと院生(経験ある奴)しか興味もてないだろう

46 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 14:19:50
では、雰囲気が開かれてゆくお手本レスをどうぞ。隗より始めよ。>>45

47 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 15:30:12
興を削がれるとすぐそれだから……
文体でわかると思うが、
俺も色々書いているよ


48 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 15:33:34
全部にイチャモン付けているわけではないよ
もう少し特定して言うと、
>>31のようなレスは、
「ジュネットとヴァレリーの関係」
にだけ特化した内容で、
たしかに正確な引用だし、
情報としては便利だが、
話題としては、前スレで終わらせても良かったネタを、
今スレに持ち込む効果しか持っていない。

もちろん31の狙いがそれなら仕方ないが、
ヴァレリーとジュネットの継承関係っていうのは、
文学理論全般の中ではやはり仏文プロパーの話題と言うべき。

49 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 15:36:18
ポエティックをより広く問うためには、
ハイデガーのDichtungとの関わりは?
みたいな方向に広がった方がいいのではないか。
だから、欠点も多いけど、
ラクー=ラバルトのような試みが個人的には興味深い。

やはりジュネットは、
哲学との関係付けに対して用心深いのだろうと思う。
デリダ派との距離設定にそれが窺える。


50 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 16:20:29
「仏文プロパー」ってのは当らない。
フランスは英米や東欧など他国の研究をやや遅れて摂取しながら、
それを一般化して世界的に広める中心となり、
「遅れを先取りに変える」傾向があった(と、ジュネット自身も言っとる)。
ナラトロジーもそれ。構造主義だって。
(ま、フランスって国は文化が売り物で政策や外交の道具でもあるからな。)
その一般化された限り、もはやフランス文学内の問題ではないわけ。
ヴァレリー流「詩学」の影響ってのも、ジュネット個人に限らず、
先立ってヤコブソンやトドロフにまで及ぶものだったし。
(彼らも異国から来てフランスでの受容を経て普遍化したよね)

51 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 16:43:51
ジュネット本人はそこそこ開かれているってはじめから書いてるじゃん
>>50>>31当人なら仕方ないけど。
このスレでのジュネット言及が、
拡がりを欠くのですよ。

「モデルニテ」における詩学の問題とか、
もう少し俯瞰的に話す方が、
2ちゃん程度の厳密性の場ではふさわしいと思うので、
批判的に書いたのです

52 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 16:45:33
それと、ナラトロジー以後は、
フランスが中心という構図すら崩れたでしょう。
90年代になって政治哲学でロールズ大流行とか、
「英米化」によって先行世代の成果を否定した動きの後は、
すっかり英米追随型になってると思うのですが……

53 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 18:00:25
要するにフランスの文化戦略に対抗すべきことを意識したアメリカが、
90年代以降、知的世界でも覇権を握るのに成功したってことだよね。>>52
でも、その前の時代から述べてるんだから、フランスの話だって別にいいぢゃん。
もちろん、他にもっと開かれた面白い話があるんなら、話題を提供してくれ。

54 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 18:23:25
いや、68年世代に反発した、
フランスの知識人自身による選択。
はっきりいって自滅だと思うけど。
あと31=50ってのは正しいわけね。
ならレジュメ以外も書いてよ

55 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 19:01:20
自分で話を振ればいいのに。

56 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 20:14:48
>>55

何事も、ツッコミ入れるよりは、ボケる方が勇気がいるものなのよ。

57 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 20:25:42
色々書いているんだけども……
ラクー=ラバルトの「近代人の模倣」ネタとかさ

58 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 21:36:24
前スレでも誰ぞが、大ボケこいとったなあ。
ジュネットらの「詩学」はアリストテレスでヴァレリーの影響でないとか、
ジュネットはヴァレリーと対立するとか、ツッコミどころ満載のボケをな。
ジュネットのヴァレリー論が引かれてもまだ、ボケに固執して大口叩いとったけど、
さすがに>>31で反論できなくなって逃げたみたいね。

59 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 22:17:16
>>54 
いやいや、カルチュラル・スタディーズなんか見ても、
イギリス発祥であっても、すっかりアメリカ主導でしょ。
ソーカル事件はアメリカのフレンチ・コネクション叩きだったし。
フランス人の自滅だけではここまでなりませんて。
でもアメちゃん流の照れの無さで哲学なんかやられたら、つきあってられんわ。


60 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 22:29:30
アートとは、それ自体が目的、それ自体が価値でありうるような、
他のナニモノに奉仕するためのものでもない、人類が何千年もの間
積み上げてきた偉大な「遊び」の体系です。

文学が現実に対して何か社会学や政治学や科学や医学や
ジャーナリズムや哲学に出来ないような、深い洞察や
思索をするのに向いているとは思えません。

文学は芸術の、つまり「遊び」の一形式であり、そういうものとして
技術的に探求すればよいだけで、それ以上の何かを期待するのは間違いです。

61 :吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 23:53:57
ジュネットのネタをこれ以上引っ張ると
都合が悪くなる人がいるってことはわかった。

62 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 00:48:47
都合は悪くないよ
じゃあ延々続けても良いけど

63 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 00:53:53
じゃあ続けておくれ>62

64 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 01:01:16
ところで野口武彦『小説の日本語』(1980)なんかは、
物語論がジュネット『物語のディスクール』(邦訳1985.8)に大成される以前の
トドロフまでの道具立てでやってるから、惜しいもんだったね。
野口武彦『『源氏物語』を江戸から読む』(1985)における
「萩原広道の「構造」主義源氏学」を再評価したところも、
小西甚一にはウケてたみたいだけど、その後、継承・展開されてないのかな。

65 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 01:23:56
>>62
>>36>>38>>41>>45>>48>>51>>54>>67は君か?
前スレの「大ボケ」も君なのか?

66 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 01:50:08
>>65
全部じゃない
大ボケなんて言ってない
私怨持たれたか

67 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 01:50:48
物語論スレ立てればいいのに
ジュネットだけじゃなく、ミーケ・バルとか含めて語るといいんじゃないの?


68 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 02:21:31
>>67
ジュネットとバルなんか泥仕合だぞw

69 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 10:32:08
そんなにも避けたがる理由がわからん。 
物語論は詩学=文学理論の一分野なんだから、ここで続けておくれ。
仏文プロパーとか私怨とかトンチンカンなレッテル貼りしてないでさ。

70 :sage:2007/09/11(火) 10:42:31
またヴァレリー厨の粘着か

71 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 10:55:29
↑トンチンカンなレッテル貼り
いま話題はヴァレリーでなくジュネットとかナラトロジーだって。
蓮實重彦・篠田浩一郎流に言ったら、説話論ってやつ。

72 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 18:17:30
イーグルトンについて語ってくれや。

73 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 19:09:01
あとヤウスについても語ってくれや。

74 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 19:21:19
彼らについて何を語れと? 語って欲しけりゃ、自分からネタ振りなよ。

75 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 23:27:31
ヤウスは一体どんなやうす(様子)?

76 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 23:40:27
万人に面白いと思われる物語の創造は可能だろうか?

77 :吾輩は名無しである:2007/09/11(火) 23:58:34
話題は、ジュネットでもイーグルトンでもヤウスでもいいし、
ヴァレリーでもラクー=ラバルトでもイーザーでもいい。
複数のテーマ、プロット、ディスクールが入り乱れてもいい。
ナラトロジー的観点からするならば、
そういう構成の小説は分析しがいがあるだろう。

まあ尻切れトンボで終わる話題もあれば、
フラッシュバックの手法よろしく
昔の話題がぶり返されることもある。
モノローグ、ダイアローグ、自由間接話法、
どれを選ぶかは各人の自由というわけだ。

78 :77:2007/09/12(水) 00:41:00
このスレをひとつの物語orテクストとみなせば、
俺が前スレで篠田の言葉をnestingの手法で盛り込むのも、
あるいは別スレとの相互交流もありだろう。
バフチンやクリスティヴァを持ち出すまでもないが、
つまり、intertextualityというわけである。

前スレで話題が出たように、
俺が以前に吉田健一スレで試みた超脱構築的読解は、
それ自体が物語素のさまざまなconjoiningやlinking、
あるいはcompoundやembeddingを盛り込んだものであり、
吉田健一の作品以上に豊かな物語性を獲得した批評だった。
何層ものレイヤー=布石を戦略的に配置したこの批評の不幸は、
優れた読者に恵まれなかったということである。

79 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 00:45:37
超脱構築的読解はいいから
早くイーグルトンとヤウスについて語れや。
あるいは騙れや。

80 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 01:03:38
前スレの673か。キタキタキタ。

81 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 01:21:35
イーグルトンなんかつまらんから、語るべきことなどないやね。

82 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 01:43:33
まあそう言わずに語れや。

83 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 02:06:18
ジュネットの物語論でも、自由間接話法についてはもっと議論すべきだ。
特に日本語においては、厳密な意味では自由間接話法は無理。
だが、ついこの間死んだ三谷邦明(『物語文学の方法』)も、そこを誤解した。
のちに自由直接言説とか改めたみたいだけど。
自由間接話法の日本語になりづらさは、中山眞彦が論じてるね。
本にはまとめてない論文だけど。
この方面で参考になる文献、あったらご教示下され。

84 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 06:27:26
なぜ日本語になりにくいの?
フローベールの日本語訳で十分その効果は分かるじゃん
なのに日本語小説でそれを使うのは難しいと?

例えば、ただの皮肉に陥りやすいとはいえ、
金井美恵子はある程度実践していると思うんだけど。
文法上の問題じゃなくて、文体として。

85 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 06:37:44
物語の解釈は人によって異なるはずだ。しかし、比較するためには基準が必要だ。
では、物語の、極力普遍的な評価基準は存在するのだろうか。

86 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 06:57:59
早くイーグルトンとヤウスについて語れや。

87 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 10:31:09
>>84
まさにそのフローベールの日本語訳(複数)に即して中山眞彦は論じてたっけな。
たしか『文学』のフローベール特集掲載。検索したら、これみたい。

論題 日本語はフローベールをどこまで受容できるか--「蒲団」の仏語訳と「ボヴァリー夫人」の日本語訳 (ギュスターヴ・フローベール)
著者 中山 真彦 (ナカヤマ マサヒコ)

請求記号 Z13-95
雑誌名 文学
出版者・編者 岩波書店 / 岩波書店 〔編〕
巻号・年月日 56(12) [1988.12]
ページ p205〜224

88 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 11:10:05
こんなのも、あったな。
 曾根博義:翻訳と日本語の壁 ―ジョイス受容史の一側面― 
 「昭和文学研究」 第31集 1〜11 ページ (1995.7)
cf. 鈴木康志「体験話法(自由間接話法)文献一覧 ―1993年以降―」
http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/No16/12SuzukiY.pdf

例のヴォロシノフ(バフチン)『マルクス主義と言語哲学』も、
自由間接話法にかなり紙幅を割く。但し、擬似直接話法と称すべきだと主張した。
それは、ロシア語では直接話法と間接話法とで形態論上の差が明らかでない所為もある。
日本語でも事情は同じだ。
で、しばしば混同して自由直接話法を自由間接話法と見做す過ちが起こる。
ウォーフの所謂SAE(標準ヨーロッパ語)の文法範疇そのままでは論じ切れないわけ。
このあたり別に日本語学でも論議があって、下記がわかりやすい整理だった。
 松木正恵「引用と話法」『日本語学』2005年1月「特集 語りのテキスト」明治書院

89 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 14:03:35
文献紹介じゃなくて議論の紹介しようぜ

90 :吾輩は名無しである:2007/09/12(水) 18:54:20
そうかい?じゅうぶん議論の紹介になってると思うぜ。
まあでも早くイーグルトンとヤウスについて語れや。

91 :吾輩は名無しである:2007/09/13(木) 01:53:30
自由直接話法と自由間接話法の差って引用符の問題だけ?

92 :吾輩は名無しである:2007/09/13(木) 04:22:21
いや自由話法ってのは、引用符の制限からも自由なものではなかったかね。

93 :吾輩は名無しである:2007/09/13(木) 09:24:27
>>91
人称と時制も違う。これは直接話法と間接話法の違いと同じ。
それから自由間接話法の「自由」は導入節(He said 等)から自由だという意味。

94 :吾輩は名無しである:2007/09/13(木) 10:55:00
直接話法では間接話法と違って引用符で括るのが通例であるが、
自由直接話法は自由間接話法と同じく引用符をつけないもの。
ところが日本語の場合、人称や時制に差が出ないため、
カギ括弧を除いたら間接話法と直接話法とを判別する目印が無くなる。
そこで自由直接話法を自由間接話法と混同しやすくなるわけ。
引用符なんて音声言語にもともとなく、書記言語での附加記号に過ぎない。
となれば、日本語の話法に直接間接の別を立てられるかすら疑問になった。
しかし次のごとき例文が考案され、一応、日本語にも直接話法と間接話法とあるとされた。
  山田は 私は馬鹿だ と言った。
この例文の「私」が山田自身なら直接話法だから発言の引用部を「 」で括るし、
「私」が例文全体の発言者(言表行為の主体)を指すなら間接話法になる、と。

95 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 02:20:30
自由間接話法に優れた作家というのは誰になるんだろう

96 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 07:22:29
>>95
英語ですぐ思いつくのはオースティン、ウルフ、ジョイス、
あまり知られてないところではキャサリン・アン・ポーター。

97 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 08:49:12
小説家ではないが、ミシェル・フーコー。
古い学説や論説を要約するとき、直接引用でなく、見事に再構成するあの文体。

98 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 08:53:39
>>84 金井美恵子もいいが、蓮實重彦の真似に見えることがある。エッセイでは特に。

99 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 08:56:07
内的独白と自由間接話法(中間話法、描出話法)を混同してない? >>96

100 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 11:05:33
ある登場人物の内的独白を表現するのに自由間接話法が使われるってことかな?

101 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 12:03:09
「けれども、「内的独白」という呼び方はいかにも適切さを欠いていた
のであって、これはむしろ直接的言説〔五字傍点〕と呼んだ方がよいの
かもしれない。」
「自由間接話法においては、語り手が作中人物の言説を引き受ける、
というかむしろ、作中人物が語り手の声によって話すのであって、
かくしてこれら二つの審級は、渾然一体と化す〔七字傍点〕。これに
対して、直接的言説の方は、語り手が姿を消して、作中人物が語り手に
取って代わる〔六字傍点〕のである。」
ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』邦訳p.202,p.203

102 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 12:57:33
>>99
んなバカなw
例えばウルフは「意識の流れ」と言われるが、文体は自由間接話法そのもの。
(『波』は別)
ジョイスで「内的独白」と呼ばれているのは自由直接話法(本来はこの用語は変)だが、
特に『ダブリン市民』と『若い…』では自由間接話法を多用している。

>>100
上に書いたように普通「内的独白」は自由直接話法のことを指すので、
登場人物の意識または心理状態が自由間接話法で表現されるということ。

>>101
その一節は色々と議論があるところだね。

103 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 12:59:12
オースティンはともかく、ウルフやジョイスに見られる「内的独白」、
というよりもっと無意識的なものに近い「意識の流れ」の表現において
自由間接話法が友好的に使われるということじゃないのかな。

104 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 13:07:09
>>100が自由直接話法を自由間接話法と混同した誤りだってのは了解済みとして。
問題は、これだ。
>>102 >色々と議論があるところ
さて、どんな異論があるの? そこが大事でしょ。

105 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 13:37:47
>>103
「内的独白」と「意識の流れ」は厳密に定義された用語ではないのでなんとも。
どちらも文法的な特徴には言及していないのが原因かもしれない。
ただ、「内的独白」はいつの間にかいわゆる「自由直接話法」を指すようになった。
「意識の流れ」はもっと指す範囲が広くて、自由間接話法も自由直接話法も入る。

>>104
「作中人物が語り手の声によって話す」では後にジュネットが批判する
バンフィールドの考え方(自由間接話法における語り手の不在)に近くなってしまう。
むしろ「語り手が作中人物の声で話す」と言った方がジュネットの物語論には合う。
(ロバート・スコールズは「腹話術的効果」と表現した)

「語り手が姿を消して」は言葉のあやかもしれないが、
ジュネットの理論では語り手が消えることはあり得ない。
敢えて言えば「語り手は黙って作中人物の言説を引用する」かな?

106 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 18:10:48
>「語り手が作中人物の声で話す」
それだとジュネットの定義とはまるで正反対になるから不可。
語り手の声=態(ヴォイス)によって語るってのは
(自由)間接話法の大事な条件であって、抜きにはできない。
直すなら、「語り手が語り手の声で作中人物に語らせる」で、どう? 
腹話術って譬喩にも合致するよ。

107 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 22:52:05
>>106
作中人物が語ることにすると、自身を3人称で指示するというおかしなことになってしまう。
「語り手が作中人物の声色を使って話す」でどうかな?
ジュネットの理論は語り手に絶対的に優位な立場を与えているんだよ。

声色を使うのはほんの一部だったり、大部分を占めたりする。
自由間接話法にはゆるやかな段階があって、語り手の言説が優勢の場合もあれば、
作中人物の言説が優勢の場合がある。
このあたりはマックヘイルが'78年頃にPoetics Todayの論文で詳しく説明している。
この論文はジュネットも『続・物語のディスクール』で引用している、いわばお墨付き。

>>105の内的独白と意識の流れで思い出した。
「内的独白」は手法を指し、「意識の流れ」は内容(自由連想に特徴付けられる)を指す、
というようなことをチャトマンが言っていた(うろ覚え)。
これも結局定着しなかったけど。

108 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 23:27:33
「内的独白」となると登場人物のモノローグになってしまう。
「意識の流れ」をむしろ「無意識的な流れ」として考えれば、
登場人物の意識では把握しきれない(言語化しきれない)領域になり、
そこでナレーターが介入せざるを得なくなり、
自由間接話法が選択されることになるんじゃないかな。

そこでは、「語り手が作中人物の代弁をする」形になり、
ナレーターと登場人物の中間地帯が開かれる。
限りなく非人称に近い三人称になるんじゃないだろうか。

109 :108:2007/09/14(金) 23:35:38
いや、まてよ。
こう書くべきだったかもしれない。

一人称に近い三人称になり、それゆえに、
同時に、非人称的なニュアンスをも帯びて
ナレーターの存在を透かし彫りにする。

110 :吾輩は名無しである:2007/09/14(金) 23:46:24
>>107
だ・か・ら。
「語り手が作中人物の声色を使って話す」では逆、間接話法にならんって。
語り手と作中人物どっちが優勢にしろ、
作中人物を三人称で呼ぶのは語り手の声以外あり得ない。
作中人物が、自分の言葉でなく語り手の語彙で以て語るからこそ、
自由間接話法でしょ。
もちろん本当は、語り手が作中人物にその様にさせる、
いや、小説の場合は作中人物なんて虚構で実在しないから、
語り手の声を保ったまま(ありもしない)作中人物を偽装するわけだが。

111 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 00:12:47
そういうのは新たな主体とかいえばいいと思う
あるいはビート詩人のファーランゲティみたいに四人称って言葉用いるとか


112 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 00:17:14
四人称ってのは、横光利一「純粋小説論」が使って名高いが、
ちゃんと言語学的な事実に基づいた概念としては、近年、
藤井貞和『物語理論講義』(2004)が提唱した。

113 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 00:18:40
>>110
作中人物が「語る」のは直接話法でしか実現不可能なんだが。
(作中人物が語っているかのような印象を与えることは出来る)
しかもそれは語り手が作中人物の言説を引用するのであって、
その逆はない(態のカテゴリーの「物語の水準」を参照)。
語彙という観点から見ると、語り手が作中人物の語彙を使って語るのが自由間接話法。
>>101は『続・…』では事実上撤回されてるよ。

それから、物語論では「虚構」という概念はない。
小説(フィクション)も歴史書(ノンフィクション)も本質的には同じ扱い。

114 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 00:28:12
>語り手が作中人物の語彙を使って語るのが自由間接話法。
反対だよ。
エンマ・ボヴァリーの夢想を、田舎の文学ファン主婦の陳腐な語彙の代りに、
詞藻豊富なフローベールの語彙で語ったからこそ、自由間接話法だ。
そこに、主人公に内的焦点化しながらも決して同化しきらずに
反語的な距離を保った作者の手腕がある。
日本語だと、どうも主人公にベッタリ同化して私小説流になってしまって……。

115 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 00:34:57
>>108
言語化されない領域は難しいけど、19世紀の心理小説のように、
語り手が作中人物の意識を分析・整理して提示することもある。
(ドリット・コーン言うところの"psycho-narration")
また『ユリシーズ』のように言説を断片化して意識を表現するケースもある。
もちろん自由間接話法が選択されることもある。
こんなことを言い出すとサピア=ウォーフまで戻ってしまうが。

116 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 00:36:15
>>113
> >>101は『続・…』では事実上撤回されてるよ。
撤回は、されてないだろ。どこからそんな解釈をしたのか。

>それから、物語論では「虚構」という概念はない。
ならば、ジュネットが「言語モデルがそのジャンルに応じて、虚構的または非虚構的な
性格を有するという違いを示そうとした」のは何なのか。
『物語の詩学 続・物語のディスクール』9章「言葉についての物語言説」参照。

117 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 00:51:59
>>114
それは>>107で触れた自由間接話法のうちの、語り手の言説が優勢の場面。
『ボヴァリー』でもエンマの語彙が採用されている箇所が多いからこそ、
最初にスイスで自由間接話法が「発見」されたわけで。
すべてが語り手の語彙ならば、そもそもこの話題は話法のカテゴリーから外れる。

自由間接話法というのは、コンテクストから外して読むと客観描写と区別がつかないこともあるが、
語彙によってそれが明確になることもある。

118 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 01:02:55
>>117
そもそも間接話法とは何かな。
「人の言った言葉を話し手が自分の言葉に言い直して伝える言い方」
「他人の言ったことを文章の中に表現するとき、そのまま引用することをしないで、書き手の立場からその内容を間接的に述べる話法」
そこに他人の言説が埋め込まれる以上その語彙が交じることは当然あるが、
基本的に語り手の語彙によって語り直す言説でなければならない。
直接法に扮装した間接話法である自由間接話法でも、それは同じ。

119 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 01:03:28
>>116
マックヘイルを持ってきた時点でもうね。

「違いを示そうとした」結果は?
ジュネットは「作者」と「読者」も物語論のモデルから除外してるんだよ?
ついでに「含意された作者・読者」も。
ジュネットのモデルでは語り手と聞き手しか残らない。

120 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 01:12:02
>>118
>基本的に語り手の語彙によって語り直す言説でなければならない。

実際に人称と時制を変換するだけで間接話法の従属節になるのだが。
18世紀の英語では従属節に引用符まで付いていた。
つまり「これは作中人物の言葉ですよ」というサイン。
その引用符を外し、導入節を省略したのが初期の自由間接話法。
ただし、これは人物の思考より発話に対して用いられることが多かった。


121 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 01:13:32
>>119 
マックヘイルの参照によっても、前著での主張は別に撤回されてないが。
説明を省かずに、面倒でも具体的に指摘されたい。

虚構論が重要なればこそ後年『フィクションとディクション』に結実したわけだし。

122 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 01:18:42
>>120
単純な問題。
人称ってことで言ったら、直接話法での一人称は間接話法では三人称になる。
さて、その三人称の代名詞や呼び名が語り手でなくて誰の語彙だってんだい?
>つまり「これは作中人物の言葉ですよ」というサイン。
もちろん、語り手の言葉で語り直された作中人物の言葉ですよ。

123 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 01:25:29
ここはひとつ、模範的な自由間接話法の作品を取り上げ、
具体例を参照しながらやっていったほうがよさげ。
「ボヴァリー」でも「灯台へ」でもいいと思うけれど。

124 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 01:31:40
例は英語にしといたほうが閉じないよ
今現在も二人の応酬になってるし

125 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 14:05:48
>>121
マックヘイルはそれまでの自由間接話法研究の主流である、
語り手が人物の言葉(語彙)を使って語るという前提で書いている。
(確認だが、マックヘイルは読んでる?これは自由間接話法を論じるなら必読)
ジュネットはそれに対して何の異議も唱えず、マックヘイルの作った例文を書き換えただけ。
>>101のジュネットの言い回しは、ヘンリー・ジェイムズとそのフォロワー達の
「人物自らに語らせる」とか「まるで人物が語っているかのように」という考え方に
引きずられているに過ぎない。どちらかというと読者として受ける印象であって、
研究者的な考察とは言い難い。なにより、自身の提示する体系に合致しない。

ところで「作中人物が、自分の言葉でなく語り手の語彙で以て語る」という考え方の
自由間接話法の研究者は誰がいる?おれは知らない。
ロイ・パスカルの言う"dual voice"をはじめとして、シュタンツェル、コーン、バンフィールド、
それぞれ考え方もアプローチも全く違う研究者がみな作中人物の声(または言葉、語彙)の存在を
前提に論じている。バフチンの初期のポリフォニーの概念も自由間接話法を念頭に置いている。

『フィクションとディクション』は物語論でなく一般詩学でしょう。
虚構の問題はもっと広い視野で考える必要があるからだよ。

126 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 14:06:56
>>122
人称と時制は文法の問題であって、語彙の問題ではないと思うが。
もっとも、時制に関しては、人物が誤った文法の使い手であれば、
それを自由間接話法の中でそのまま使う場合もあるが(ジョイス等)。
この場合の語彙とは、語り手は使いそうもないが人物は使う言葉、
逆に人物は知らないが語り手にとっては当たり前の言葉を問題にすべきでは?
後者はあなたが『ボヴァリー』に関して言っていることだよね?

>>123-124
ウルフだと語り手と人物の語彙の差がほとんどないので、この論点では難しいと思う。

127 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 14:18:54
2ちゃんでこんな真面目な話をするのは初めてだw
しかしこういう議論にはまったく向いてないな…

やはりある程度のスペースと時間が必要で、さらにお互いが誰で、
どんな業績があるかを知っていることが重要になると思った。

128 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 17:17:00
>>125
>語り手が人物の言葉(語彙)を使って語る
それだけだと、(自由)直接話法も同じことで、区別がつかないと思った。
定義としては不足で、いくら作中人物の語彙が交じっても、
間接話法である要件が別にあるはず。

129 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 17:37:25
いわゆる「エロゲ論壇」にいる人たちに、ちょっと物申したい。

「ノベルゲーム」という切り口でエロゲ・ギャルゲを論じるのはそろそろやめたほうがよくないか。

「ノベルゲーム」って、ADVのうちで、特に画面における文字の比率が多いものをさす言葉だよね?
今「ノベルゲーム」って枠で考えることが出来るヒット作なんて、Type-Moon作品とひぐらしくらいしかないわけだが。
そりゃ確かにどちらも大ヒットしてるけど、業界全体を見るには狭すぎる切り方だ。

今、ほとんどのエロゲ・ギャルゲはADVだ。たまにRPGやSLGもある。
ノベルゲームは、下手するとRPGやSLGよりも少ないくらいのマイナージャンルだ。
ADVのサブジャンルとして見たほうがいいんじゃないかなあと。

ちなみにKeyは、一本も形式としての「ノベルゲーム」を出していないにも関わらず、
ノベルゲーム系だとみなされている真に不思議なブランド。

130 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 18:00:41
直接話法では、語る主体は、あくまで作中人物。
間接話法では、語る主体は、あくまで語り手。

131 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 19:26:07
>直接話法では、語る主体は、あくまで作中人物。
>>107曰く、「ジュネットの理論は語り手に絶対的に優位な立場を与えている」。
その通り。
「あらゆる物語言説は、明示的にであろうとなかろうと、「一人称」で
語られていることに変わりないのである。」『物語の詩学』102ページ
したがってジュネット式物語論の帰結としては、
作中人物が語ると言っても、それは虚構、乃至は語り手による(再)生産であって、
語り手がそんな風に見せかけて語るのに過ぎない。

132 :吾輩は名無しである:2007/09/15(土) 21:59:41
ROM専だったけど、盛り上がってるんで書いてみる。
うーん。「作中人物が語り手の語彙で語る」ねぇ…。
サールのpretense理論(「虚構言説の論理的地位」等参照)では
虚構文=作者による偽装という見解が提示
されていたけど、それとは違うの?

133 :吾輩は名無しである:2007/09/16(日) 02:35:17
サール説だと最終的に虚構=現実に対して二次的
って構えが崩れないからなんかつまらん

134 :吾輩は名無しである:2007/09/16(日) 03:49:19
文法構造とか物語の構造に語らされるとか
もっと言語学的に言えば三人称がベースになってある程度まで特権的な人称として一人称があるわけで
つきつめていけば記号の唯物性にぶち当たらざるを得ないはずなんだが

ハスミ先生的に言えば物語分析の二元論が無化される地平で不意に露呈する事件のための装置としてある小説の擁護。


135 :吾輩は名無しである:2007/09/16(日) 09:29:44
>>125
>『フィクションとディクション』は物語論でなく
『フィクションとディクション』の第三章「虚構的物語言説、事実的物語言説」は、
どう見ても物語論だけど? 
順序、速度、頻度、叙法って物語論のカテゴリーで順次検討してゆくもの。

136 :吾輩は名無しである:2007/09/16(日) 09:58:28
>>134
言語学的に言ったら逆だよ。
一人称がベースとなって、特権的な人称として三人称(非人称)がある。
いかなる三人称のイストワールも、末尾に「と私は語る」と附加できることによって、
潜在的には一人称のディスクールなのだから。
だからジュネットも、語り手のない物語言説はありえないと主張する。
となれば同様に、いかなる他者の一人称(作中人物の語る発言)も、
物語言説においては、潜在的には語り手の一人称の語りに引き受けられるべきものだ。

137 :吾輩は名無しである:2007/09/17(月) 21:35:00
語り手の一元論のようなものをもってくるときに
ジュネットはどういう戦略を狙ってるわけ?

138 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 00:04:00
>潜在的には語り手の一人称の語りに引き受けられる
こんな当然といえば当然のことをことさら述べる意味なんてないだろう。
ジュネットというのはまあこの程度のレベルの批評家。

139 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 00:45:48
>>136の後から二行は、ジュネットの主張でなく、ジュネットから論理的に引き出される意見だぞ。

140 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 00:53:16
一連のやり取りを見て、
ジュネットの、精緻な割に素朴な前提を知ると、
やっぱりデリダって文学理論において重要だったんだなあと思った。

脱構築批評って日本ではあまり実践者がいないよね


141 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 01:57:45
金井美恵子の「柔らかい土をふんで、」なんてのは
いつの間にか人称が明示できなくなる地平を危うく「豪快な泳ぎっぷり」でいつの間にか
「それ」に語らされる描写になってるんじゃないか

142 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 02:07:17
アートとは、それ自体が目的、それ自体が価値でありうるような、
他のナニモノに奉仕するためのものでもない、人類が何千年もの間
積み上げてきた偉大な「遊び」の体系です。

文学が現実に対して何か社会学や政治学や科学や医学や
ジャーナリズムや哲学に出来ないような、深い洞察や
思索をするのに向いているとは思えません。

文学は芸術の、つまり「遊び」の一形式であり、そういうものとして
技術的に探求すればよいだけで、それ以上の何かを期待するのは間違いです。

143 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 04:01:29
ところでハードボイルド小説とか異邦人の文体、ARGとかシモンの小説、あるいは春樹でもいいけど
心理描写しない小説についてはどう思う?
価値ある新しい手法と認めていいですか?

144 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 07:20:05
ヤウスとイーグルトンについて語れや。

145 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 15:17:27
>>143
心理描写の排除=パロールの優位性を否定する方法の一つ

146 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 15:31:25
いまやイーグルトンについて語る意味はないよ

147 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 21:04:33
文学理論家の仕事は整理・整頓です。
それそのものをおもいつき、産み出すのは作家です。
産まれ出た「それ」を世の中の人のために整理・分類したり
時には名付けてあげたりするのが文学理論家の仕事です。
「それ」を自分で考え出したりする文学理論家はいません。
くだらない仕事のようですが、世の中のためにはこういう人たちも必要です。

148 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 21:22:30
>>146
なんで?あんた何様?

149 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 23:11:00
>>140でも書かれているように、
文章構造を精緻な読解で解き明かす批評家、
分類体系をうまくまとめ上げる批評家、
そうした文学専門のアカデミックな批評家は、
ともすると暗黙の前提に鈍感なところがある。
前提を設定しなければ理論を構築できないからだ。

デリダ的な脱構築批評は、そうした暗黙の前提を明るみに出し、
テクストが明示的に主張しているものに反する
ブラインドネスを顕わにしていく。
よって、積極的に理論を構築することはできない。

どちらも併せ持つ批評のスタイルが試みられるべきなのだろう。

150 :吾輩は名無しである:2007/09/18(火) 23:32:58
文学部って頭悪いんだよな。

正が言うのも分かる希ガス。

151 :149:2007/09/18(火) 23:49:27
ということで>>147の意見がごく素朴なご感想であることは
上に書いたことで明らかになっただろう。
たとえばフライのような分類に巧みで整理整頓に長けた批評家、
を具体的に念頭に置いているかどうかは、かなり怪しいがw

そしてイーグルトンの『文学とは何か』も整理整頓の書だが、
>>146のような意見が出てくるのも当然といえば当然だろう。

しかしながら、どんな批評にも多かれ少なかれ効用はある。
ただの「遊び」と切り捨ててしまえないことは、
>>142のこれまた素朴なご感想に反するがw、
たとえばカイヨワの『遊びと人間』を引けば済む。

で、批評の効用あるいは機能については批評家も書いてはいる。
フライなら「批評の途」、イーグルトンなら「批評の機能」があるが、
これらは驚くほどつまらないw

152 :149:2007/09/18(火) 23:55:10
で、批評の効用あるいは機能についてだが、たとえば、
頭の良くない読者が、>>143で挙げられている小説、
カミュ、ARG、シモン、あるいは、>>141の金井美恵子を読むとする。
面白くないと思って途中で放り出す。
このとき、批評には出番がないw

それならば、批評の出番はどこにあるのか?
そう、多少頭の良い読者が前述の作品を読むとする。
これは面白いがどこが面白いのか説明できない、と感じる。
そのとき、批評はその面白さを言語化してくれるだけでなく、
感じることができなかった面白さをも明らかにしてくれる。

153 :149:2007/09/19(水) 00:09:11
>>112を読んで思ったのだが(藤井貞和のは読んでないんだが)、
横光が「純粋小説論」で提示した「四人称」っていうのは、
自由間接話法のようなものを目指した概念だったのかもしれない。

154 :吾輩は名無しである:2007/09/19(水) 00:27:01
>多少頭の良い読者が〜

つまり、己が賢しさを誇りたい批評家センセイと、
その賢しげな物云いを理解出来ちゃう賢いこのオレなんてな、
キショクの悪い馴れ合い、もたれ合いが、
批評なるものの、存在意義だとw
あほらし。

155 :吾輩は名無しである:2007/09/19(水) 00:37:06
本来、知とは排他的なものだよ、きみ。

156 :149:2007/09/19(水) 00:42:37
>>154
まあ、つまりは簡単な話でね。
頭の悪い奴にとっちゃ批評はまったくの役立たずだし、
批評のほうでも頭の悪い奴なんか相手にしてないってこった。

プルーストの『失われた時を求めて』を堪能した読者が、
ウィルソン『アクセルの城』のプルースト論を読み、
ジュネット『フィギュール』のプルースト論を読んで、
そこに作品の新たな魅力の提示を感じることは、
頭の「多少」良い読者にしかできないわけだ。

もちろん、頭のとっても良い読者が批評を読んで、
「ここに書かれていることは全部自明なことばかりだ」
と思うことも時にはあるわけだが(経験談としてね)w

157 :吾輩は名無しである:2007/09/19(水) 00:52:20
>>149
デリダやド・マンにはプロレスファンがプロレス観戦を楽しんでるところに来て
総合格闘技を持ち出すような野暮なところがある。
ロープに振られた相手がはねかえってくるのはオカシイと生真面目に指摘するようなところが。
気づきつつもある種の共犯的感覚でそこから目をそむけているプロレスファンにしてみれば
否定はできないんだが迷惑な存在。

158 :149:2007/09/19(水) 00:58:01
>>157
なるほど、わかりやすくて面白い比喩だなw
アカデミックな文学プロパー=プロレスマニアか。
暗黙の前提を問う哲学的な批評家は、さしずめK-1選手か。
K-1に行った後でプロレスには戻れるかな?

159 :吾輩は名無しである:2007/09/19(水) 01:03:12
もっとイーグルトンについて語れや。
あとヤウスについても語れや。
じゃんじゃん語れや。

160 :吾輩は名無しである:2007/09/19(水) 03:46:26
>>159
特に今世紀のイーグルトンは糞だからイラネ

161 :吾輩は名無しである:2007/09/19(水) 08:13:24
同じように美学・イデオロギーを批判したのに
イーグルトンの株は下落しド・マンの株は値崩れしない。

162 :吾輩は名無しである:2007/09/19(水) 16:15:44
イーグルトンのは、いわゆるイデオロギー批評だから
ド・マンの内在批評とは路線が違う



163 :吾輩は名無しである:2007/09/19(水) 22:49:37
同じマルクス主義批評家だったのに
イーグルトンとジェイムソンの立場は逆転してしまったし

164 :吾輩は名無しである:2007/09/20(木) 00:29:08
英米はド・マン以外は落ち目ですorz

165 :吾輩は名無しである:2007/09/20(木) 02:11:09
80年代は、
「イーグルトンの方が創作やってるし鋭い」
って評価だったのにね
狭量すぎたか

166 :吾輩は名無しである:2007/09/20(木) 15:20:44
▲▲民主藤田議員公設秘書逮捕▲覚醒剤・大麻▲▲
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1190267205/l50
【政治】 民主党・藤田参院議員の公設秘書、覚醒剤取締法違反などで逮捕
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1190257500/l50


167 :吾輩は名無しである:2007/09/20(木) 17:02:24
六回も「ヤウスについて語れや」って言ってる奴がいるのに、
みんな無視してるのがワロス

168 :吾輩は名無しである:2007/09/20(木) 17:17:27
そういやヤウス晩年に何かスキャンダルがあったと聞くけど、何?

169 :吾輩は名無しである:2007/09/20(木) 19:21:20
イーグルトンとヤウスについて
語れや、語れや、じゃんじゃん語れや。

170 :吾輩は名無しである:2007/09/20(木) 21:30:03
ヤウスよりイーザーの話がいい

171 :吾輩は名無しである:2007/09/20(木) 22:49:19
ヤウスの方が文章面白い

172 :149:2007/09/20(木) 23:35:55
しつこい粘着質な人間がいるから、仕方がねえな。
ヤウスについて俺が語ってやるか。
その前にひとつ尋ねておくが、
ヤウスを読む前に当然ガダマーは読んだんだろうな?

173 :吾輩は名無しである:2007/09/21(金) 07:42:04
ガダマーについても語れや。

174 :吾輩は名無しである:2007/09/21(金) 10:38:35
ガダマーの前に、当然ハイデガーやディルタイ読んだろうな?

175 :吾輩は名無しである:2007/09/21(金) 11:38:40
R・ラポルト『探究──思考の臨界点へ』
山本光久訳、新宿書房、[近刊予定(刊行時期未詳)]。
[ISBN: 9784880083728]
< http://urlcut.com/isbn9784880083728 >

176 :吾輩は名無しである:2007/09/22(土) 02:06:57
R・ラポルトいいねえ。
版元が新宿書房というのが不安だけど。

177 :吾輩は名無しである:2007/09/22(土) 10:25:25
ハイデガーとディルタイについては語るなや。

178 :吾輩は名無しである:2007/09/22(土) 15:35:06
ネルソン・グッドマンの「例示」って概念は、面白いな。

179 :吾輩は名無しである:2007/09/22(土) 15:50:25
面白いのは例示じゃないだろ


180 :吾輩は名無しである:2007/09/22(土) 15:56:43
面白くない、と? すると君が面白かったのは何か?

181 :吾輩は名無しである:2007/09/22(土) 17:30:59
「例示」が面白いのか面白くないのか
青か緑かのどっちかはっきりさせてくれ!

182 :吾輩は名無しである:2007/09/22(土) 21:48:54
グルーとかガヴァガイとか、英米分析哲学流の真面目腐ったユーモアって、
結構好きかも。

183 :吾輩は名無しである:2007/09/23(日) 00:41:25
ドイツの批評にはそういうユーモアがないねえ

184 :吾輩は名無しである:2007/09/23(日) 02:14:26
作家論、作品論を書いた上で文学理論をやるべきなのに
それができない批評家が結構いる

185 :吾輩は名無しである:2007/09/23(日) 02:44:50
分析哲学のユーモアって、理系のSFオタっぽいよ

186 :吾輩は名無しである:2007/09/23(日) 18:36:35
たしかにそうだ

187 :吾輩は名無しである:2007/09/24(月) 02:13:58
作家論、作品論を書いた上で文学理論もできるという点では
ジュネットはかなり優秀。

188 :吾輩は名無しである:2007/09/24(月) 23:41:58
文学理論に強い日本の出版社ってどこかな?

189 :吾輩は名無しである:2007/09/26(水) 01:01:57
みすず、未来社、水声社あたりか

190 :吾輩は名無しである:2007/09/26(水) 01:43:37
『文学理論 (1冊でわかる)』 ジョナサン・カラー (著), 荒木 映子 (翻訳), 富山 太佳夫 (翻訳)

これどうでした?レビューでは誤訳ありらしいですが。



191 :吾輩は名無しである:2007/09/27(木) 01:12:15
みすず、未来社、水声社、岩波あたりは固いとして、
英米文学なら研究社
仏文学なら白水社
独文学ならどこだろ?

192 :吾輩は名無しである:2007/09/27(木) 04:39:42
松籟社、三修社

193 :吾輩は名無しである:2007/09/28(金) 00:31:04
同学社には批評関係はないか

194 :吾輩は名無しである:2007/09/29(土) 02:19:42
ジョナサン・カラーは読んだことないなあ

195 :吾輩は名無しである:2007/09/29(土) 13:09:21
文学理論の解説本ほどくだらないものはない

196 :吾輩は名無しである:2007/09/30(日) 16:27:50
イタリアの文学批評って何かある?

197 :吾輩は名無しである:2007/09/30(日) 17:38:33
アガンベン

198 :吾輩は名無しである:2007/09/30(日) 18:05:11
ウンベルト・エーコ

199 :吾輩は名無しである:2007/09/30(日) 19:10:34
エーコは批評家として認められてんの?

200 :吾輩は名無しである:2007/09/30(日) 20:14:02
一応、認められてるんじゃない?
白水クセジュの『物語論』のサブタイトルが
「プロップからエーコまで」だったし。

201 :吾輩は名無しである:2007/09/30(日) 20:30:04
最近あいつが来ねえな

202 :149:2007/10/01(月) 00:42:19
>>173
ガダマーの前にヤウスについて語ってやるか、
と思ったのだが、ヤウスについて語るよいも、
ド・マンのヤウス論について語るほうがいいぞ。

しかしながら、「抵抗」所収の論文ということであれば、
むしろ、ド・マンにおいて刺激的なのは、
ベンヤミン「翻訳者の使命」をめぐる口頭発表の論文であり、
神秘性なきメシア性、みたいなテーマは特に面白い。
それがそこでは充分に展開されていないだけに。
また余白においてデリダを参照させる点でも。

ということで、まずはベンヤミンについて語る必要があるなw
未だ誰からも論破されたことのない俺が言うのだから間違いないw

203 :吾輩は名無しである:2007/10/01(月) 01:07:14
ド・マンなんか糞だろ

204 :吾輩は名無しである:2007/10/01(月) 01:08:59
>>203
論外


205 :吾輩は名無しである:2007/10/01(月) 02:08:17
バフ

206 :吾輩は名無しである:2007/10/01(月) 11:21:09
ヤウスから逃げるなや。あとイーグルトンからも逃げるなや。

207 :吾輩は名無しである:2007/10/01(月) 21:18:55
ド・マン、ドント・マインド

208 :149:2007/10/03(水) 00:33:19
>>206
未だかつて論破されたことの俺からの言葉を受け取れるかな?
いいか、俺のレスを読むときは頭をフルに使って読むことだ。
俺のレスはそんじょそこらのレスとは大いに異なり、
常にアレゴリカルで複合的な伏線を張っているからな。

君が俺のエクリチュールを受容できるだけの成熟した読者ならば、
つまりは、俺のエクリチュールにふさわしいだけの
期待の地平が用意されているならば、理解できるはずだw

まあド・マンによれば、ベンヤミンはヤウスの対極に位置する。
ベンヤミンにおいては作者は絶対的な立場をとるからだ。
それゆえに翻訳は不可能になる。翻訳者の使命は、
その不可能性を身に帯びることだといってもいいわけだ。

209 :149:2007/10/03(水) 00:38:31
208の1行目の「ない」という言葉がなぜ「ない」のか、
これも迂闊な読者にとっては受容できない大いなる謎となるだろうがw
注意深く多少の勉強をした読者ならばすぐに理解できるだろう。
たとえば、存在という言葉に×をつけたハイデガーを知ってるならば。

210 :吾輩は名無しである:2007/10/03(水) 00:56:42
ド・マンについてもっと語ってほすい(^.^)

211 :吾輩は名無しである:2007/10/03(水) 01:09:38
バフ チンチン
ド マンマン

212 :吾輩は名無しである:2007/10/03(水) 22:46:20
ド・マンの陰に隠れるなや。存在しろや。

213 :149:2007/10/04(木) 01:20:07
こうして既にヤウスを語らずして語っているわけだが、
まあそれに気づくだけの「期待の地平」に期待しても無駄だなw

作者と読者の関係、あるいは作者と翻訳者の関係において、
問題は、ベンヤミン側につくか、ヤウス側につくか、という点にはない。

勿論、ド・マンがどちらの側に傾いているかということも問題ではない。

ド・マンが両者を総合的に把握する視点を見い出していないことも、
ここでのさしたる重要な問題というわけではない。

では、何が問題なのか? 
実は、もう既に、それについてアポカリプティックに書いている。

214 :吾輩は名無しである:2007/10/04(木) 06:36:14
隠れたる神は俺だけで十分じゃ。
おまいみたいなボンクラはただ素直に語ればいいんじゃ。
ベンヤミンもド・マンもいいから
おまいは悪霊に憑かれた豚のような読者の一人として
ヤウスを語ればいいんじゃ。
裸になれや。堂々と裸になれや。
裸のおのれを見せんと好いた女とアレもできんじゃろうが。
「愛は言葉じゃない」って裕次郎も言っとったろうが。
期待の地平にどんどん突進しろや。存在しろや。
その上でおのれの腹から言葉を糞みたいに出せや。
そして糞の海の中で憑かれた豚みたいに溺死しろや。
ああそうじゃ、溺死する前にイーグルトンについても語れや。

215 :吾輩は名無しである:2007/10/04(木) 23:20:08
プッ(~o~)

216 :吾輩は名無しである:2007/10/05(金) 21:06:11
つか論文書けや

217 :吾輩は名無しである:2007/10/06(土) 00:15:18
つーかおまえが書けや

218 :吾輩は名無しである:2007/10/06(土) 02:39:03
ド マン〇

219 :吾輩は名無しである:2007/10/07(日) 02:11:55
はよー書けや

220 :149:2007/10/08(月) 02:20:31
おまえらほんと駄目駄目ちゃんなオパピーばっかだな。
語れや、書けや、教えて等、おねだりしかできねえんだからw
自ら回転する独楽である俺とは大違いだ。

さて、ベンヤミン「翻訳者の使命」をめぐる問題系には
さらにほかのテクストを接木することができる。
ハイデガー、そしてデリダだ(そしてマルクス)。
以下ヒントとなるテーマのみを記しておく。
といっても、このレベルについてこれる人間は少ないだろうが。

ベンヤミンにおける「純粋言語」。単一言語。
デリダ「バベルの塔」とド・マンのベンヤミン論の比較検討。
ハイデガーにおけるガイスト(精神)。ガイストとゴースト。
マルクスのゴースト(亡霊)。あるいは郵便的なもの。
仏語「esprit」、ラテン語「spiritaus」、ギリシャ語「pneuma」。
手を触れることの許されない神聖なもの。
「触れる」ことのテーマ(ナンシーとデリダの比較)。
バベル。神自身のダブル・バインド。
触れられることなき根源的なもの。いわゆる処女のおばあちゃん。
オリジナルにおける複数性。ハリネズミのジレンマ。

221 :吾輩は名無しである:2007/10/08(月) 11:41:26
臆病者めが

222 :吾輩は名無しである:2007/10/08(月) 22:32:40
222get

223 :吾輩は名無しである:2007/10/09(火) 00:33:40
デリダのベンヤミン論はかなり難解だね。

224 :吾輩は名無しである:2007/10/10(水) 23:12:45
デリダはただ読んでもわからんよ

225 :吾輩は名無しである:2007/10/10(水) 23:19:38
デリダをどう読むといいのかな?

226 :吾輩は名無しである:2007/10/11(木) 01:54:26
訓練を積まないと読めないのかな。。。

227 :吾輩は名無しである:2007/10/11(木) 02:58:45
デリダってワンパターンだから、
慣れてきたら結構簡単。

228 :吾輩は名無しである:2007/10/11(木) 14:09:54
デリダのベンヤミン論読むと、
ベンヤミンの方が面白いとすぐに気付くよな

229 :吾輩は名無しである:2007/10/11(木) 21:43:21
ベンヤミンの面白さって具体的には?

230 :吾輩は名無しである:2007/10/12(金) 01:58:48
理念を問題にしている批評に具体を求めるのか……
いやはや

231 :吾輩は名無しである:2007/10/12(金) 13:56:23
答えられないということでFA?

232 :吾輩は名無しである:2007/10/12(金) 23:09:08
FAっぽい

233 :吾輩は名無しである:2007/10/12(金) 23:45:34
理念の具現化はいらんのか
それなら問題にする必要すらないな

234 :吾輩は名無しである:2007/10/13(土) 00:40:08
「仮に研究する人生」では沖縄での、スピヴァク、本橋哲也、鵜飼哲らの
悪行が話題ですが、このスレでもやってみるか。

235 :吾輩は名無しである:2007/10/13(土) 20:51:58
文学だけでなく批評も読者の想像と対になっているのだから
もっと想像を働かせろというわけです。

236 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 12:16:24
そういう説教は235がそれに値する人物じゃないと無効。
想像じゃなくて実際に分析してみせた方がずっと良いですよ

237 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 13:57:08
なに、構造主義的に?解釈理論はいろいろと矛盾を
孕んでいるから深く関わると本が楽しくなくなる。
一般的にテクストは読者に権威を譲っているように
思わせておいた方がいいでしょうが。本は読まれるために
あるんだから。

238 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 14:00:03
なんで>>237の文章は、一見まともなのに説得力が全くないのだろうか?

239 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 14:04:21
実はまったく興味がないから

240 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 14:10:12
ヾ(o゚ω゚o)ノ゙ プニプニ!プニプニ!


241 :.       .:2007/10/15(月) 00:12:44
ある文章を一見まともに見えたとみせかけるこのパフォーマティヴに対し
まともに見えるか?と問いたくなってしまうのは野暮か。

242 :吾輩は名無しである:2007/10/15(月) 00:18:25
>>241
不毛

243 :吾輩は名無しである:2007/10/16(火) 00:35:29
おやおや(^.^)

244 :吾輩は名無しである:2007/10/17(水) 00:41:47
ナラトロジーを体系化したジュネットの功績は認められてるけど
個々の作品論や作家論ではめぼしいものがないよね。

245 :吾輩は名無しである:2007/10/17(水) 13:55:02
ジュネットともう一人、面白いのはバルトかなあああああ
結局構造主義なんだよね、ナラトロジーって。

どうしても好きになれんのです。
誰かナラトロジーですごい面白い人、いないっすかね?

246 :吾輩は名無しである:2007/10/17(水) 17:18:01
読まずに語られているミーケ・バルでも読んでみれば?


247 :吾輩は名無しである:2007/10/18(木) 19:48:43
214の恫喝にびびった149が来なくなって
このスレのびないねwww

248 :吾輩は名無しである:2007/10/19(金) 00:20:46
↑意味不明

249 :吾輩は名無しである:2007/10/19(金) 00:54:49
ミーケ・バルってどんな人?

250 :吾輩は名無しである:2007/10/19(金) 23:43:55
ググッてもよくわかんない>ミーケ・バル

251 :吾輩は名無しである:2007/10/19(金) 23:48:48
こういうスレは板の底辺で淀んでるのがちょうど良いのに、
ソレを分からんヤツがナニをこいてもダメでしょう。

252 :吾輩は名無しである:2007/10/21(日) 12:43:07
おまいら流れ止まってきたからってageすぎw

253 :吾輩は名無しである:2007/10/21(日) 13:31:19
この分野はネット言論の力が及びにくいからね
ミーケ・バルのように、
ちょっとマイナーになると途端に調べにくくなる

254 :吾輩は名無しである:2007/10/21(日) 14:25:32
ミーケ・バルはオランダの研究者で、物語論の他にフェミニスト批評もやっていたと思う。
英語、フランス語、オランダ語で著作があり、ジュネットとの焦点化をめぐる論争で有名。
日本語訳はなかったと思うが、ジュネットの『物語の詩学』で論争の一部はわかる。

255 :吾輩は名無しである:2007/10/21(日) 15:20:29
文化的な背景をないがしろにしているクリティクが多すぎると思う。

海外の日本研究者のレベルを考えると、もっと国内に目を向けたクリティクであるべき
だと思う。


256 :吾輩は名無しである:2007/10/21(日) 15:25:17
誰のこと言ってんの?
インテリ=欧米文脈みたいなイメージで語ってるだろ
むしろ逆。

257 :吾輩は名無しである:2007/10/21(日) 23:19:32
ほーsage進行を好む人間もいるのか

258 :吾輩は名無しである:2007/10/22(月) 19:50:22
文学理論家の仕事は整理・整頓です。
それそのものをおもいつき、産み出すのは作家です。
産まれ出た「それ」を世の中の人のために整理・分類したり
時には名付けてあげたりするのが文学理論家の仕事です。
「それ」を自分で考え出したりする文学理論家はいません。
くだらない仕事のようですが、世の中のためにはこういう人たちも必要です。

259 :吾輩は名無しである:2007/10/22(月) 21:37:38
>>258
>「それ」を自分で考え出したりする文学理論家はいません。

いるよw
馬鹿は黙ってろ。

260 :吾輩は名無しである:2007/10/23(火) 00:04:50
「「それ」を自分で考え出したりする文学理論家」の研究者も
山ほどいるのだよ、258君。君は彼らを批判すべきであった。
「彼らは「それ」を自分で考え出してるのか?」と。

261 :吾輩は名無しである:2007/10/23(火) 08:30:01
つーか、おそらく258はコピペしかできない香具師なんだが。

262 :吾輩は名無しである:2007/11/01(木) 06:42:37
俺は分野が近いからわかるが、小谷野は研究的には二流だよ
まあ、三流ではないが
本人が「お得意」と思っているらしい「実証」レベルでボロが多いし、
理論と来たら「嫌い」と言って、わからないのをごまかしている
この業界には東大出がごまんといるが、ほんとに「理論」がまったくわからない バカが結構いるんだよ

> 小谷野は研究的には二流だよ

というのは、 小谷野の修論(八犬伝)、博士論文(近世文学における男の恋?) 谷崎伝、そして比較文学の論文を指している?

> この業界には東大出がごまんといるが、ほんとに「理論」がまったくわからない バカが結構いるんだよ

近世文学ではどういう「理論」を使うの? イーグルトンの教科書に出てくるような理論?

Literary Theory: An Introduction, (Blackwell, 1983, 2nd ed., 1996).
大橋洋一訳『文学とは何か――現代批評理論への招待』(岩波書店, 1985年/新版, 1997年)

小谷野が大橋を憎むのは、大橋は一応こういう理論が解ってるからか。 なんか納得。

82 『男の恋の文学史』って博士論文がもとになってんだよな
学生時代読んだきりでそんときは文学研究はこんなもんかなとか思ったけど、時を経ていろいろ硬い本も読んだ今思い返すと、あの本って研究っていえるものだったのだろうかと思わざるえない。
一般向けに直しているとはいえ、あれで東大の博士号をとれるって言うのが不思議だなー
小谷野は博士号にこだわってるけど、あれでとれるなら博士号なんかやっぱどうでもいいんじゃない

84 まじめに実証的または理論的な比較文学やってる奴からしたら、小谷野みたいのは迷惑だろうな
「あれを比較文学と思われたら困る」だろう。

263 :吾輩は名無しである:2007/11/03(土) 00:37:07
またコピペか

264 :吾輩は名無しである:2007/11/05(月) 00:07:27
鹿島とか坪内あたりはみんな読んでないよね

265 :吾輩は名無しである:2007/11/05(月) 01:32:46
存 在 し ろ や ボ ケ

266 :吾輩は名無しである:2007/11/12(月) 01:17:06
--松本孝弘(B'z)
 『俺が思うにはポップスってのはやっぱり売れないとダメだと思うんだよ。
  売れないっていうのは曲が悪いんだと思う。うん。
  もちろんヒットするって事には色々な要因はあるけどさ、
  どんなにプロモーション打っても、曲が良くないと絶対に売れないね。
  もちろんいい曲なのに売れないって曲もある。でもそれは作り手側のエゴなんだと思うよ。

--稲葉浩志(B'z)
 『こういう仕事をしてる人たちはみんなエゴの塊なんですよね(笑)。それがなくちゃやってけない。
  でもだからって他人を貶す人がいるでしょう?
  「俺たちの曲の方が素晴らしいのに世間はわかっていない」とか。
  ああいうのは惨めですよね。そりゃ胸の内にはみんな持ってると思うけど
  それを高らかに言っちゃうあたりは(笑)。カッコ悪いと思います。誰とは言わないけど』

267 :吾輩は名無しである:2007/11/12(月) 02:13:39
鹿島と坪内は結構読んでるよ

268 :◆7sqafLs07s :2007/11/13(火) 17:42:05
>>266

さすがは売れるために音楽性を大変更して
エアロスミスのコピーバンドになったビーズさんだけあって
含蓄のあるお言葉です。

269 :吾輩は名無しである:2007/11/13(火) 17:47:00
同じエアロでもウォークディスウェイをカバーしたランDMCは格好いいのにね。

270 :吾輩は名無しである:2007/11/13(火) 17:59:06
そのエアロ自体、初期はストーンズのパクリだとか言われてたね。

271 :◆7sqafLs07s :2007/11/13(火) 18:03:35
>>269

RUN D.M.Cはエアロのメイン二人と共演してるしねPVで。
ある意味ではミクスチャーロックのメジャーシーンにおける先駆だった。
ビーズも共演したっけか。ついこのまえ。
でもPVで共演はないだろうな(笑)

>>270

ストーンズはビートルズのコピーバンドだったわけだしね。
まあリブタイラーを生み出しただけでえらいよスティーブンは。

272 :吾輩は名無しである:2007/11/25(日) 04:25:18
>ストーンズはビートルズのコピーバンドだった

おいおい・・・

273 :吾輩は名無しである:2007/12/01(土) 10:50:44

イーグルトンとジェイムソンをこれから読んでみよっと。
最近マルクスに興味を持ち始めた俺。

274 :吾輩は名無しである:2007/12/01(土) 13:46:48
>>6
マリー=ロール・ライアン著 『可能世界・人工知能・物語理論』

読んだ人、どうでしたか?
蓮實重彦がボヴァリー夫人も赤頭巾も読んでない素人だと言ってますが。

275 :吾輩は名無しである:2007/12/01(土) 17:14:53
アウエルバッハとかクルチウスとかはつまらんかった

276 :吾輩は名無しである:2007/12/01(土) 18:17:51
オマエらよりは面白い。

277 :吾輩は名無しである:2007/12/07(金) 02:19:09
アウエルバッハの面白さとは?

278 :吾輩は名無しである:2007/12/07(金) 07:07:33
あまり理論的ではないから、
読み物として通読できる

279 :吾輩は名無しである:2007/12/08(土) 01:40:04
通読できるただの読み物。。。

280 :吾輩は名無しである:2007/12/08(土) 09:43:52
それじゃ赤川次郎といっしょ



281 :吾輩は名無しである:2007/12/08(土) 12:32:42
物語批判ってあったじゃん
あれはなんで物語は駄目だという定義なの?
またその辺のことについて書いてある著作を教えて

282 :吾輩は名無しである:2007/12/08(土) 15:34:01
構造分析がたやすくできる限り、
昔話とかと一緒になるから、
わざわざ作品として執筆する意味に乏しいという判断だろう


283 :吾輩は名無しである:2007/12/08(土) 18:47:02
ハスミンの「物語批判序説」>281

284 :(o^v^o) :2007/12/08(土) 20:12:18
3人でちんぽ舐めあいながら地下足袋だけになり持って来たいちぢく浣腸を3本ずつ入れあった。
しばらくしたら、けつの穴がひくひくして来るし、糞が出口を求めて腹の中でぐるぐるしている。
おっさんにけつの穴をなめさせながら、兄ちゃんのけつの穴を舐めてたら、
先に兄ちゃんがわしの口に糞をドバーっと出して来た。
それと同時におっさんもわしも糞を出したんや。もう顔中、糞まみれや、
3人で出した糞を手で掬いながらお互いの体にぬりあったり、
糞まみれのちんぽを舐めあって小便で浣腸したりした。ああ〜〜たまらねえぜ。
しばらくやりまくってから又浣腸をしあうともう気が狂う程気持ちええんじゃ。



285 :吾輩は名無しである:2007/12/10(月) 00:57:16
アウエルバッハの面白さについては
理論的じゃないというよりも
もっとほかにいいようがあるだろうに。

286 :吾輩は名無しである:2007/12/11(火) 00:29:06
ミメーシスについて語れる人誰かいないの?

287 :吾輩は名無しである:2007/12/11(火) 01:25:38
>>285
あんたが語るべき
巨大な教養人とかそんな美辞麗句じゃなく

288 :吾輩は名無しである:2007/12/15(土) 02:31:31
誰も読んでないんじゃね?

289 :吾輩は名無しである:2007/12/15(土) 10:18:19
アウエルバッハの「ミメーシス」はたいへん優れた書物。
ホメロスからヴァージニア・ウルフに至るまで具体的なテクストに即した分析が冴え渡る。
各章の冒頭に古典的な文学作品からの数頁程度の引用があり、それについての博引傍証を究めた精緻な解釈が展開される。
テクストの微視的箇所に徹することによって、作品の全体像どころか、総体としての「ヨーロッパ文学」が姿を現す恐るべき書物。
古典と呼ばれて誰もが知っているが誰も読まない著作たちを知識の死蔵から救い出し、「死後の生」を生きさせるその手腕は見事と言うほかない。
しかもこの『ミメーシス』は、ナチスに追われイスタンブールで研究生活を送っていた時代に書かれている。
後書きには、「完備した図書館もないので、現代の専門的研究はおろか、校訂版さえ見ることができなかった」旨が記されている。
この発言が「専門的な」文学研究にとってどういう意味を持っているのか、心して受けとめなければならないだろう。

290 :吾輩は名無しである:2007/12/15(土) 10:19:02
同じくアウエルバハは『世界文学の文献学』(みすず書房)も落とせない。
名論文「フィグーラ」はもとより、巻頭の「聖書の通俗的な言葉」なども思わず目を見開かされる着想に富んでいる。
またアウエルバハはヴィーコのドイツ語訳者でもあるのだが、彼がヴィーコに惹かれる理由は、この『世界文学の文献学』によりはっきりと現れている。
同種の記念碑名著に、クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』(みすず書房)があるが、こちらはどちらかという書きぶりが羅列的。
好みの分かれるところだろうが、アウエルバハとクルツィウスという対比は、プラーツとバルトルシャイティスという対比と似ているかもしれない。

291 :149:2007/12/17(月) 00:41:52
アウエルバッハの『ミメーシス』は結局文体論なんだよ。
確かに面白さについては評価が分かれやすい作品だろうな。

古典に抵抗感がある人は順番どおりに読んでいくのはきついだろう。
その場合は6章あたりから読んでいって、最後に1章に戻るという方法もある。
ラブレーやモンテーニュの章あたりはかなり読みやすく抵抗感が少ないはず。

292 :吾輩は名無しである:2007/12/30(日) 00:51:38
クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』欲しいけど高すぎ

293 :吾輩は名無しである:2008/01/09(水) 00:58:56
アウエルバハとクルツィウスの対は
プラーツとバルトルシャイティスに似てるってマジ?

294 :吾輩は名無しである:2008/02/10(日) 02:51:35
良スレage

295 :吾輩は名無しである:2008/02/10(日) 16:26:49
糞スレage

296 :吾輩は名無しである:2008/02/11(月) 12:58:30
筑波AGE

297 :吾輩は名無しである:2008/02/16(土) 03:21:22
イーグルトンの『文学とは何か』と、大橋洋一の『新文学入門−T・イーグルトン「文学とは何か」を読む』。
どちらを先に読めばいいのかしらん?

298 :吾輩は名無しである:2008/02/20(水) 19:24:09
すきなほうから

299 :吾輩は名無しである:2008/02/20(水) 20:01:47
唯野教授から読め

300 :吾輩は名無しである:2008/02/20(水) 20:43:10
大橋の本は興味がなけりゃスルーでおk

301 :吾輩は名無しである:2008/02/20(水) 23:36:29
イーグルトン「文学とはなにか」以降はどのような進路をたどればいいのでしょうか
好きな各論へ進めばいいの?
あと、イーグルトン「イデオロギーとはなにか」は読むべきでしょうか

302 :吾輩は名無しである:2008/02/21(木) 00:07:33
そんな暇あったら鮨屋で鮨を食べる順番を覚えろ。

303 :297:2008/02/21(木) 01:28:44
>>298-300
『文学部唯野教授』は現在読書中。ハイデガーのあたりは正直しんどい。
大橋氏の著書はイーグルトンをあらかじめ読むのが前提になっているのかどうかを知りたかったのですが・・・。

304 :吾輩は名無しである:2008/02/21(木) 01:57:09
>>303
何とか教授はここではネタだろ

305 :吾輩は名無しである:2008/02/29(金) 03:45:39
現象学は難しいよね。世界地平まではわかるんだけど、その後の転回の原〜とかがわからなくなる


306 :吾輩は名無しである:2008/02/29(金) 20:07:26
こういう理論とか批評とかは、
わかろうとするんじゃなくて、
なぞって遊ぶもんだ

307 :吾輩は名無しである:2008/03/02(日) 18:44:57
http://d.hatena.ne.jp/librarian-87/20080301/1204387206
http://d.hatena.ne.jp/mine-o/20080302
http://d.hatena.ne.jp/shinichikudoh/20080301
http://d.hatena.ne.jp/Michel_Wu/20080301
http://d.hatena.ne.jp/whitestoner/20080301
http://d.hatena.ne.jp/whitestoner/20080301

転叫院さんは受かってたよ。Aじゃなかったけどw

308 :吾輩は名無しである:2008/03/10(月) 21:55:52
おめ

309 :吾輩は名無しである:2008/03/11(火) 16:25:35
現代文学理論―テクスト・読み・世界 土田 知則 (著), 神郡 悦子 (著), 伊藤 直哉 (著) って読んだことある人いる?
探してるけどなかなか見つからないんだよね

310 :吾輩は名無しである:2008/03/11(火) 22:00:24
>>309
密林でも普通に売ってたよ。
http://www.amazon.co.jp/dp/4788505797/

311 :吾輩は名無しである:2008/03/11(火) 22:07:52
アマゾンで売ってるのは知ってる
ただ、本買うときは中身を見てから買うようにしてるからせめてどの程度の内容なのか知りたいんだ

312 :吾輩は名無しである:2008/03/11(火) 22:50:51
>>311

http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0196821517
ジュンク堂
 池袋本店 4冊 在庫有り

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4788505797.html
紀伊國屋書店
この商品は下記の店舗に在庫しております。
新宿南店、新宿本店、福岡本店、梅田本店、札幌本店、
広島店、徳島店、光の森店、佐賀店、高松店

313 :吾輩は名無しである:2008/03/11(火) 22:58:24
そんな都会に住んでないんだよ
県内のいろんな店舗回ってみたけど見つからなくて
そこまでして買う必要あるのかと言われればないけど一度気になるとなかなかスッキリしなくて

314 :吾輩は名無しである:2008/03/11(火) 23:02:00
何こいつ

315 :吾輩は名無しである:2008/03/11(火) 23:03:35
ごめんね

316 :吾輩は名無しである:2008/03/11(火) 23:09:21
県立図書館調べろや

317 :吾輩は名無しである:2008/03/12(水) 18:34:04
今日駒場の書籍部で大橋洋一が、漫画やラノベを30〜40冊位まとめ買いしてた。
やっぱ大橋さんもそういうの気になるんだな。


318 :吾輩は名無しである:2008/03/12(水) 18:47:32
>>309-316
お互い落ち着けよ。

本の内容はとりあえず検索してもあんまりヒットしないしスレでもあんまり見たことない本って言う時点で推して知るべし。
いっそ人柱になってはいかがか。

319 :吾輩は名無しである:2008/03/12(水) 20:10:37
質問してる人がいい加減なだけでしょ。

「中身を見てから買う」と言いながら2ちゃんの感想を頼り
自分の試みた探索方法も示さず
アドバイスをくれた人にも礼の一言も無い。
文学理論以前にもっと学ぶことがある気がするけど。

320 :吾輩は名無しである:2008/03/12(水) 21:10:56
そうだね

321 :吾輩は名無しである:2008/03/12(水) 22:14:33
テクスト・読み・世界とかいう本検索してみたらお薦めしてるレビューがあったから気が向いたときに探してみよう。
感想書くかどうかは別だけど。

322 :吾輩は名無しである:2008/03/16(日) 17:06:08
文学理論やってる人は哲学なんかも読んでる?

323 :吾輩は名無しである:2008/03/27(木) 12:00:47
勉強してください

324 :吾輩は名無しである:2008/04/07(月) 01:19:59
哲学もある程度おさえないとセオリーは無理でしょう。

325 :吾輩は名無しである:2008/04/08(火) 14:08:50
虚業に従事していて、恥ずかしくないんですか

326 :325:2008/04/15(火) 01:03:18
都合の悪いことは無視するんですか。ねぇ。これ読んでるあなたのことですよ、ねぇ。

327 :吾輩は名無しである:2008/04/19(土) 03:48:06
うちの大学では教科書としてJ・カラーの「文学理論」が用いられていて、T・イーグルトン「文学とは何か」には一つの講座の指定もない。

何か理由があるんですか。

328 :吾輩は名無しである:2008/04/19(土) 09:08:59
>>327
>T・イーグルトン「文学とは何か」

カラーのに比べて古いし大部だからじゃねいの?

329 :吾輩は名無しである:2008/04/20(日) 08:57:05
>>328
ドモありがとです

330 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 07:24:10
イーグルトンの受容理論解釈はかなりバイアスがかかってるよな。
とくにイーザーの説明なんて恣意的な曲解としか思えなかった。

331 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 07:27:15
受容理論に限ったことではない。わかりやすくくだいた代償なのかね。

332 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 08:27:33
わかりやすさの功罪。まぁ、そうだろうな。
しかし、あれ一冊だけ読んだ人に「受容理論には他者がいない」とか
「構造主義には歴史が欠落している」なんて批判されちゃタマランですよ。

333 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 11:31:53
勝手に言ってろ。

334 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 11:43:03
もちろんハナから勝手に言うつもりであって、お前のご宣託は不要だ(笑)

335 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 11:46:17
真面目にレスされちゃタマランですよ。

336 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 11:49:21
と、ここまで全て私の自演でした。
おあとがよろしいようで……

テンテケテンテンテン

337 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 11:53:22
え? 次に誰が書き込むか知ってんの?
お宅さん、言葉の意味わかってる?

338 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 11:58:19
>>337
とても自己言及的ですね、わかります

339 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:00:28
これやから文系脳は堪らんの。アホとは対話でけへんな。
わかっとんのか、え? おいコラ。

340 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:02:53
>>338
「自己言及」に程度なんてあるんですか?
言語感覚、おかしくないですか?

341 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:03:15
>>339
おんどりゃクソ森wwwwwww

342 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:05:17
「的」を「程度」しか解釈し得ない言語感覚こそ、不憫に思いまする。

343 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:09:56
失礼。もちろん
×「程度」しか
○「程度」としか
の誤記です。堪忍してつかぁさい。

344 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:10:10
>>342
おーなんや、まだやんのか。おもろいな。

なら手前の解釈を聞かせてみろや。「とても」がどう掛っているかの説明もすてけらしぇ。
旧帝大理系学生のワシにも分かるようにな。

345 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:28:06
それでは「宮廷理系学生」(笑)様のために解説いたします。
「とても」について『広辞林』は二通りの意味を提示しています。
すなわち、
1.どんなにしても。どうしても。どんなことをしても。
2.非常に。はなはだしく。すこぶる。きわめて。
「程度」と解釈した「クソ森」……
失礼。「宮廷理系学生」(笑)様が2の意味を選択したことは明らかです。
かてて加えて、「クソ森」様はそれを特権化していらっしゃる。パラディグムの黙殺ですね。嘲笑すべき態度です。
「自己言及のパラドックス」という言葉を知っていれば、こんな間違いしなかったでしょうに……
また、「とても」がどこにかかるのかといえば、副詞なのだから用言の「である」にしかかかるわけがない。
ちなみに「的」は接尾語だ。まさか「的」にかかるなどといった間違いを「宮廷理系学生」様が
なさるとは思いませんが……

346 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:31:10
逃げよったか。まー、ヒヨっとる>>343のことやから、カンモクできんと俺が去った後からコソコソ書き始めるんやろうけどな。

おれ今がら勉強すて来んでがす。ほだらもう行ぐべがや。

347 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:31:55
ペダンチックで嫌らしいお人。

348 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 12:51:38
ん? パラディグムの黙殺って、何だ? ムカツクから調べねぇよ。

いや、私が恥じ入ることはないのである! 衒学的な用語をおし並べて煙に巻こうというのは嘴の黄色い初学者のなすところであって、門外の者にも伝わる、簡にして要を得た文章を呵すのが学者としての本分なのである!

これだから日本の文学は駄目なんだ、まったく……。少しは材料科学を見習え、馬鹿めらが。

349 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 13:02:12
パラダイムならパラダイムって書け、畜生! もう来ねえよ!

350 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 15:53:43
めずらしく延びてると思ったらこんな内容かい。

>>345
>また、「とても」がどこにかかるのかといえば、副詞なのだから用言の「である」にしかかかるわけがない。
>ちなみに「的」は接尾語だ。まさか「的」にかかるなどといった間違いを(以下略)

見苦しいな。
どんなに言い訳をしても「とても」は「自己言及的」にかかっているに決まっている。

351 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 16:04:45
へぇ副詞って名詞句にかかるんだw

352 :吾輩は名無しである:2008/05/03(土) 16:41:25
意味の上ではどう見ても「自己言及的」にかかってるでしょうが
だいたい「どこに」かかっているのかなんて問題にしてないし

とても意図的にはぐらかしたのかな?

353 :吾輩は名無しである:2008/05/04(日) 00:14:05
>>351
ほんとに馬鹿なんだなwww
ググれカス。

もちろん君は文法書を買ってもいいんだよ、カスに小判だろうけど。

354 :吾輩は名無しである:2008/05/04(日) 00:15:10
さらし上げするの忘れてたw

355 :吾輩は名無しである:2008/05/04(日) 00:39:28
レスの応酬が、





とても不可解。

356 :吾輩は名無しである:2008/05/04(日) 00:49:34
とても低水準

357 :吾輩は名無しである:2008/05/04(日) 01:27:24
理論好きは……という実証スレ?

358 :吾輩は名無しである:2008/05/04(日) 01:53:27
とても実証的。

359 :吾輩は名無しである:2008/05/04(日) 08:52:49
これらの原因を>>332に帰すべきであることは明明白白であるのことよ

360 :吾輩は名無しである:2008/05/04(日) 20:36:09
「あまりに近視眼的すぎる」
『新版 文学とは何か』68ぺえじ 8ぎょうめ

361 :吾輩は名無しである:2008/05/04(日) 20:40:05
あぁ、この場合は「あまりに〜すぎる」ですか。
ヒャーこりゃ恥ずかしい

362 :吾輩は名無しである:2008/05/05(月) 20:09:13
>>361

363 :吾輩は名無しである:2008/05/05(月) 20:35:33
名詞の「○○」を「○○的」「○○的な」と形容詞化・形容動詞化するのは一般的な用法
もともと自己言及的は self-reflectiveの邦訳
これ形容詞

364 :吾輩は名無しである:2008/05/05(月) 20:40:14
つまり、「とても」という副詞は、
「自己言及的」という形容詞にかかるとするのが普通


365 :吾輩は名無しである:2008/05/05(月) 20:41:10
どーでもえーがな。

366 :吾輩は名無しである:2008/05/05(月) 20:48:45
>>363-364
正しい。

367 :吾輩は名無しである:2008/05/05(月) 20:52:43
理系の学生に負けてやんのー

368 :吾輩は名無しである:2008/05/22(木) 00:46:12
あげ

369 :吾輩は名無しである:2008/05/23(金) 17:54:08
クセジュから新刊。フランス系だが、これは必読。

ドミニク・ラバテ著/三ッ堀 広一郎 訳
二十世紀フランス小説
[シリーズ:文庫クセジュ]

税込価格 : 1103円 (本体価格1050円)
ISBN : 978-4-560-50924-1

現代フランス小説の森に分け入るための地図
ジャンル : 文庫クセジュ/語学・文学
体裁 : Q 並製 174頁
刊行年月 : 2008-05
内容 :
プルーストからペレック、日本では未邦訳の作家にいたるまで一挙に紹介。たえず変化する世界
の様相を表現するため、彼らが小説という形式に込めた思考を解説する。頼れる読書案内。
ル・クレジオ、マンシェット、ペレック、キニャール、エシュノーズ、トゥーサン……
いろいろな味わいの樹果を楽しめる現代フランス小説の森。その森に分け入るときに頼りになる
地図が本書である。個々の作品の出自と背景、作品どうしの相互関係について知ることによって、
読書がもたらす愉悦は倍増する。未邦訳の作品も紹介され、作家たちが小説という形式に込めた
思考や、小説というジャンルの特異性と変容があきらかになる。

http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=50924

370 :吾輩は名無しである:2008/05/23(金) 18:20:37
得意なはずのサッカーとビートルズで、嘘吐いて追い込まれてるCさんをよろしく!

ビートルズ総合
http://tmp7.2ch.net/test/read.cgi/mog2/1208246933/l50

1をフルボッコするスレ
http://tmp7.2ch.net/test/read.cgi/mog2/1204372289/l50

宇宙・生命・人文・科学・総合part2
http://tmp7.2ch.net/test/read.cgi/mog2/1202715271/l50

371 :吾輩は名無しである:2008/05/23(金) 19:18:08
>>369
この手の長たらしい注釈を必要とするフランスのポモ小説は、どこか間違ってるとしか思えんな


372 :吾輩は名無しである:2008/05/25(日) 13:55:18
ジョナサン・カラーのフローベール論 新刊

http://www.thedaviesgrouppublishers.com/culler,_flaubert.htm

373 :吾輩は名無しである:2008/07/28(月) 17:36:57
てか最近の現代仏蘭西小説ってどれもこれも面白くなry

374 :吾輩は名無しである:2008/07/28(月) 17:51:05
今の小説好きは全員アメ文専攻だろ

375 :吾輩は名無しである:2008/08/22(金) 19:58:32
テリー・イーグルトンの『文学とは何か―現代批評理論への招待』には
新版と旧版があるみたいですけど、これって何が違うのでしょうか?

新版の方ではページ数がおよそ40〜50ページくらいも増えているので、
内容が充実していたり、解説が変わっていたりすると思うんですが・・・。


376 :吾輩は名無しである:2008/09/10(水) 08:31:11


377 :吾輩は名無しである:2008/09/10(水) 20:00:00
あ゛

378 :吾輩は名無しである:2008/10/13(月) 03:49:50
あげ

379 :吾輩は名無しである:2008/10/13(月) 16:42:40
文学理論は存在しない

380 :吾輩は名無しである:2008/10/13(月) 16:48:20
心の中にある

381 :吾輩は名無しである:2008/10/14(火) 02:09:25
すべては心の中にある

382 :吾輩は名無しである:2008/11/09(日) 13:52:43
最近理論・批評でいい本が出ないな
翻訳も含めて

383 :吾輩は名無しである:2008/11/09(日) 13:55:46
最近出た本では、
ジャン=ジャック・ルセルクル『言葉の暴力』
がオススメ。訳がちょっと微妙な出来だが。

384 :吾輩は名無しである:2009/01/24(土) 16:26:18
かと思えばジョン・ドゥも妙に日和ったレビューを書いてるし。
てめえのケツをかばうことを考えるくらいに偉くなりでもしたのか。
ま、やつの悪口雑言レビューはきちっと保存してあるから、済ました顔
してどっかにでてきても、すぐに誠実めかした化けの皮ははがしてやれ
るんだが。(w

385 :吾輩は名無しである:2009/01/31(土) 15:35:53
佐藤亜紀の小説のストラテジーとかよんだひといる?

386 :吾輩は名無しである:2009/04/12(日) 07:41:27
古本でヒリス・ミラー『小説と反復』買った。わりと面白い。

387 :吾輩は名無しである:2009/04/12(日) 22:19:07
>ヒリス・ミラー『小説と反復』
どんな感じよ?

388 :吾輩は名無しである:2009/04/13(月) 06:27:44
おもしろい

389 :吾輩は名無しである:2009/04/16(木) 04:22:32
http://www.youtube.com/watch?v=zKBlcydEE3I
(´Д`;)

390 :吾輩は名無しである:2009/04/30(木) 23:09:14
アンリ・メショニックって今月の8日に亡くなっていたんだね。
偶然みつけて、ショックだった。

391 :吾輩は名無しである:2009/05/01(金) 15:29:08
マジすか
ろくに邦訳も出ないままに死んでしまったのか

392 :吾輩は名無しである:2009/05/02(土) 10:59:04
メショニックの邦訳ってこれしか出てないのか。
日本語は翻訳天国と言われるけど、ぜんぜんだな。

詩学批判 詩の認識のために
アンリ・メショニック (著), 竹内 信夫 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/B000J7K1LC/

393 :吾輩は名無しである:2009/05/02(土) 12:01:50
竹内信夫なんかが紹介したせいで後が続かなかったんだと思う

394 :吾輩は名無しである:2009/05/13(水) 18:48:31
堀江貴文は40年前に月に行けたのなら、今頃は人が冥王星あたりまで行ってたっていいじゃないか、
というような話をしていたがその感覚はよく理解できる。
過去にそこまで行ったんだから現在はもっと前にいるべきだ、という進歩至上主義とも言うべき感覚。

別に宇宙探検に限らない。他の文化的なことでも、「現在はもっと前にいるべきだ」という感覚は必要なものだ。
こういう感覚がなければ物事はどんどんダメになるのではないだろうか?

そして、今やそういう感覚を持つ優秀な人間はやはりIT関係、あるいは金融方面に集中してしまっているのではないだろうか?
堀江のような突出した人物だけではなく、「ブログがチョイ人気程度」の者を見てもそういう気がする。

問題なのは、彼らがITや金融だけに特化して優秀である、ということではないことだ。
「あいつらは、コンピュータや投資だけが得意の機械野郎さ。人間的なこと、文化的なことは何も分からない機械化人さ、そうだろメーテル!」
的なことが通用しないということだ。

例えば、こんなことがあった。去年、日本近現代文学史上最重要と思われる人物の全集が出て、高い本なので買った人の
レビューを参照しようとググってみると、出てくるのが「ブログがチョイ人気程度」のプログラマーだけだったりする。
ネットで「ヒヒョウ」とか言ってる輩は、読んでないばかりか名前すら出てこない。
ネットだけじゃなく文芸誌に書いているようなのでもダメだね。

まあ、時代によって才能のある人間が集まる場所が違う、というのは当然といえば当然の話だ。
昔は人文関係にもそれなりに優秀な人間が集まった。
しかし、浅田彰、宮台真司、福田和也あたりが最期だったね。

今、文学とか批評とか言ってるのは最早特殊学級の様相を呈している。
(こういう人達は自分の写真や映像をネットに提示するときは注意して欲しい。
とにかくもう顔が違うんだよ、IT関係とかの人と比べて。俺は人事ながら、こういうことに結構ショックを受けるのだ)。

やはり、テクノロジーと経済というのは恐ろしい。
嘘を曝いてしまう、というよりも、「本当のこと」を「嘘」に引きずり降ろしてしまう。

しかし思えば、現在のような新帝国主義の時代というのはそういうものかもしれない。

395 :吾輩は名無しである:2009/06/24(水) 23:38:43
このスレでは大橋洋一が受けているみたいだけど、
彼の翻訳したジェイムソンなんて訳がひどかったんだけど。
彼が英語ができないっていうのは学習院時代からで
同業者の間では割と有名なことなんだけどね。

396 :武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/06/24(水) 23:58:22
>>395
ウィンダム・ルイス論、誰でもいいから訳して欲しいな

397 :吾輩は名無しである:2009/06/25(木) 00:03:06
外国語学科における「語学できる競争」って、
嫌らしい威信闘争と陰口に終わることがほとんど。マジキモイ。

398 :吾輩は名無しである:2009/06/26(金) 00:57:40
>>397
大橋信者が必死で笑える
お前低脳だろ
まあ、誤訳を読まされる側にとってはたまらんだろ
仕事をきちんとやれよってこと

399 :吾輩は名無しである:2009/06/26(金) 09:30:25
大橋信者なんかじゃないって
スノビズムが気持ち悪いだけ

94 KB [ 2ちゃんねる 3億PV/日をささえる レンタルサーバー \877/2TB/100Mbps]

取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
名前: E-mail (省略可) :


read.cgi ver 05.0.7.8 2008/11/13 アクチョン仮面 ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)