【5:386】川端康成とか三島由紀夫のおすすめ作品- 1 名前:無名草子さん 2007/05/10(木) 22:00:32
- おせーて
- 377 名前:無名草子さん :2009/10/28(水) 11:31:26
- 小肥りのした体格、福徳円満の相、かういふ相は人相見の確信とはちがつて、しばしば酷薄な性格の仮面になる。
独逸の或る有名な殺人犯は、また有名な慈善家と同一人であることがわかつて捕へられた。 彼はいつもにこやかな微笑で貧民たちに慕はれてゐた。 その貧民の一人を、彼はけちな報復の動機で殺してゐたのである。 彼は殺人と慈善とのこの二つの行為のあひだに、何らの因果をみとめてゐなかつた。 三島由紀夫 「手長姫」より
- 378 名前:無名草子さん :2009/10/28(水) 11:32:24
- 自在な力に誘はれて運命もわが手中にと感じる時、却つて人は運命のけはしい斜面を
快い速さで辷りおちつゝあるのである。 三島由紀夫 「軽王子と衣通姫」より
- 379 名前:無名草子さん :2009/10/28(水) 20:41:48
- 川端康成の古都
- 380 名前:無名草子さん :2009/11/02(月) 16:21:36
- 「葉隠」の恋愛は忍恋(しのぶこひ)の一語に尽き、打ちあけた恋はすでに恋のたけが低く、もしほんたうの
恋であるならば、一生打ちあけない恋が、もつともたけの高い恋であると断言してゐる。 アメリカふうな恋愛技術では、恋は打ちあけ、要求し、獲得するものである。 恋愛のエネルギーはけつして内にたわめられることがなく、外へ外へと向かつて発散する。 しかし、恋愛のボルテージは、発散したとたんに滅殺されるといふ逆説的な構造をもつてゐる。 現代の若い人たちは、恋愛の機会も、性愛の機会も、かつての時代とは比べものにならぬほど豊富に恵まれてゐる。 しかし、同時に現代の若い人たちの心の中にひそむのは恋愛といふものの死である。 もし、心の中に生まれた恋愛が一直線に進み、獲得され、その瞬間に死ぬといふ経過を何度もくり返してゐると、 現代独特の恋愛不感症と情熱の死が起こることは目にみえてゐる。 若い人たちがいちばん恋愛の問題について矛盾に苦しんでゐるのは、この点であるといつていい。 三島由紀夫 「葉隠入門」より
- 381 名前:無名草子さん :2009/11/02(月) 16:23:11
- かつて、戦前の青年たちは器用に恋愛と肉欲を分けて暮らしてゐた。大学にはいると先輩が女郎屋へ連れて行つて
肉欲の満足を教へ、一方では自分の愛する女性には、手さえふれることをはばかつた。 そのやうな形で近代日本の恋愛は、一方では売淫行為の犠牲のうえに成り立ちながら、一方では古い ピューリタニカルな恋愛伝統を保持してゐたのである。 しかし、いつたん恋愛の見地に立つと、男性にとつては別の場所に肉欲の満足の犠牲の対象がなければならない。 それなしには真の恋愛はつくり出せないといふのが、男の悲劇的な生理構造である。 「葉隠」が考へてゐる恋愛は、そのやうななかば近代化された、使ひ分けのきく、要領のいい、融通のきく 恋愛の保全策ではなかつた。そこにはいつも死が裏づけとなつてゐた。 恋のためには死ななければならず、死が恋の緊張と純粋度を高めるといふ考へが「葉隠」の説いてゐる理想的な恋愛である。 三島由紀夫 「葉隠入門」より
- 382 名前:無名草子さん :2009/11/08(日) 11:48:25
- イタリア最大の出版社の一つであるモンドダリは、二年後(投稿時2002年)に、三島由紀夫選集を出すことを
企画している。ローマ大学のマリアテレーサ・オルシ教授を編者とするこの選集の目的は、三島文学の美しさを あらためてイタリアに紹介することにある。 その目標を達成するため、序文、解題と共に訳文の精確さが大切なポイントとして顧慮され、日本語からではなく 英語などから重訳されている作品も、今度は新しく日本語から直接翻訳される。 その中には…(中略)「鏡子の家」等も含まれる。この最後の作品は私の担当作品なので、少し考察したい。 周知のように、三島がひたすら情熱と才能を傾けて書いた「鏡子の家」は非常に評価が低かった。 予想を裏切る反応に作者は落胆したが、昭和42年にはこの小説を「自分の好きな作品」に数えている。 それにも関わらず、この作品はあまり研究の対象になっていない。評判が良くなかった理由は様々に書かれて いるが、ここでは反論するよりも、私にとって興味深く、秀逸と思われるところをすこし分析してみたい。 マティルデ・マストランジェロ 「『鏡子の家』イタリア語初訳」より
- 383 名前:無名草子さん :2009/11/08(日) 11:49:21
- 「鏡子の家」は構成が見事である。その枠組みの中に、美しく表現力豊かな文章や隠喩がちりばめられている。
冒頭に〈みんな欠伸をしてゐた〉という、短いが意味深長な一文がある。 「みんな」に含められる登場人物たちは、生との関わりに困難をきたし、倦怠感に蝕まれている。 群小人物の光子と民子は倦怠を逃れるため銀座の美容院に行って満足する。 他の主要人物たちは自分の内面世界と外界との関係に支障をきたしている。 俳優志願の収は自分の身体を明確に知覚できず、身体と存在を同一視するに至る。画家の夏雄は突然視界が 消滅する出来事に遭遇して以来、絵が描けなくなるが、内面世界をより狭くすることで再び描けるようになる。 拳闘選手の峻吉は記憶空間のない生活を構築する。鏡子は自分の内面世界についてあまり考えないようにし、 友人たちの経験、思想に満ちている「家」に住んでいる。 マティルデ・マストランジェロ 「『鏡子の家』イタリア語初訳」より
- 384 名前:無名草子さん :2009/11/08(日) 11:50:15
- しかし冒頭の「みんな」には、会社員である清一郎が意図的に挿入されていない。清一郎は一番俗世に混じって
生活している人物で、日本だけではなくニューヨークに住んでいる時も問題なく仕事環境に溶け込める。 しかしその能力は世界崩壊を固く信じることから来るものと言うべきである。 「鏡子の家」の完璧な構造では、鏡子が友人たちを追い出して自分の家を“閉める”という経緯が作品の 結びとなる。つまり小説の終わりと“家の終わり”が一致するのである。 そして冒頭と同じく、光子と民子はつまらなそうに「仕方なし」に銀座の美容院に行く。 三島の描写は暗示的で、しかも読者の目前に見えるような印象的なイメージが豊かである。 最も顕著で、優雅なイメージ操作は「鏡」をめぐるものであろう。 タイトルとなる女主人公の名前を始め、すべての人物にそれぞれ自分の「鏡」がある。 マティルデ・マストランジェロ 「『鏡子の家』イタリア語初訳」より
- 385 名前:無名草子さん :2009/11/08(日) 11:51:24
- 収は本物の鏡に映るとほっとするが、鏡より肉体を強く感じさせる女性と出会った時、その人間的な鏡と
死ぬことを決意する。 夏雄は自分の絵におのれを投影する。それゆえ、絵が描けなくなった時、一旦自分を見失う。 峻吉は力を自分の鏡とする。しかし喧嘩で手を怪我して拳闘ができなくなると、自分の鏡である力を右翼の 青年団に入って使う。 鏡子は自分を皆の鏡であると思いながら、他人を自身の鏡として使う。最後に娘と互いに映しあう鏡遊びで、 どちらが娘かどちらが母か、どちらが女らしい魅力と欲情をよりそなえているかわからなくなる。 ちょうど金閣寺が素晴らしく金色に輝く姿を鏡湖池に映すように、「鏡子の家」の人物たちは自らを 映す物なしでは生きられないのである。ひょっとしたら、作者も小説に自分を映したのかとも思われる。 登場人物に三島自身の投影が認められるかどうかは別として、隠喩やイメージが豊富で、とても面白く読める 作品である。 マティルデ・マストランジェロ 「『鏡子の家』イタリア語初訳」より
- 386 名前:無名草子さん :2009/11/08(日) 11:52:25
- 個性的であざやかな表現が多いので、翻訳する側はそれをうつし変える困難を何とか切り抜けなければ
ならないが、作者の力量や熱意がページごとに感じられる。 古典文学を翻訳するとき、イタリアの読者に伝えにくい雰囲気、理解しがたい習慣等がある。 しかし「鏡子の家」の場合、そのような難しさはなくて、例えばサルトル、モラヴィアを読んだ者には 感じやすい倦怠感もあり、場面がニューヨークになっているページもあるし、それほど遠い文化が感じられる ところはないと言える。 ただ、完璧に文体の美しさを伝えることはやはり容易ではない。しかし、それは読者より翻訳者の問題であろう。 原文の美しさに感服しつつ、同レベルの文体の文章を作ろうと格闘中の私には、何故今まで「鏡子の家」が 訳されなかったのか不思議に思われる一方、その任を受けたことを幸いに思い、この作業がたいへん有意義な 経験となることが確信されるのである。 マティルデ・マストランジェロ 「『鏡子の家』イタリア語初訳」より
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